正教定理神学 

 正教定理神学 (著 マカリイ1世 訳 上田将。明治22年版)による。

 原文との相違
 1 漢字カタカナ表記を漢字ひらがな表記に改めた。
 2 旧漢字は新漢字に改めた。
 3 適宜段落を入れた。
 4 適宜句読点を挿入した。
 5引用句は『』で括った。
 6 引用書名は現在のものに代えた。


目次
後部 神の造物主及照管者たる事
31 此定理に関する教会の教及び本部の構成
32 創造の解。神は世界を創造せり、世界は永遠より存在するに非ず
33 至聖三者の諸位、創造に与かりたること
34 神が世界を創造したるの状
35 神が受造物の重なる種類を創造したるの順序
36 神の世界を創造せし所以、及び其目的
37 神の造物の善美なること
38 神の照管の解、其作用及種類
39 神の照管の実在
40 神の照管の各作用幷其二大種類の実在
41 至聖三者の諸位照管に与かること
42 神霊界の善霊及悪霊に区別せらるること幷神が造物主及照管者として彼らに対するの関係
43 神使の解、其存在の確実なること及彼等の神に造られたること
44 神使の性質
45 神使の数及其階級即ち天の神品職
46 神は善神使を幇助す
47 神は善神使を治理す(甲)
48 (乙)神使の人々に対する務、守護神使のこと
49 悪霊の種々の名称及其存在の確実なること
50 悪霊は初め善霊に造られたれども自ら悪霊となれり
51 悪霊の性質及び其数
52 神は只悪霊の動作を放任するのみ
53 神は悪霊の動作を制限し之をして善良の結果に向はしめんとす
54 此定理に関する教会の教及び此教の区分
55 初人アダム、エワが神に造られたりと為すモイセイの説の本義及其趣意
56 アダム及エワより全人類の出たること
57 人間の組織
58 人の霊魂の性質、人に在る神の像及肖
59 人間の目的
61 此定理に関する教会の教及此教の区分
62 初造の人に対する神の照管及之に予へられたるの誡
63 人自ら縦まにして罪に陥りたること、其の罪に陥るの状及其原因
64 元祖の犯罪の結果
65 元祖の罪の全人類に伝はること、原罪及其結果の解
66 原罪の実在及普及の理幷に之が遺伝の方法
67 原罪が吾人に生ずるの結果
68 神は人の罪に陥りたる後も息まずして之を照管す(甲)神は国家及人民を照管す
69 (乙)神は個々の人々を照管し、就中義人を照管す
70 人に対するの神の照管の方法及次編に移るの意


三十一、此定理に関する教会の教及び本部の構成
第一、神の造物主及び照管者たることに関する正教の教は、ニケヤ及びコンスタンティノポリの信経に略述せられたり。曰く『我信ず、惟一の神......全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を』と。而して更に詳に神の造物主たる事は正教会之を吾人に教ふること左の如し『無論神は見ゆると見えざる万物を造りし主なり。初め神は其意を以て無より凡ての天軍を造りて、善く己の栄を讃する者と為し、而して其知世界を造れり。此世界は其受くる所の恩に由りて神を知り、恒に全く其旨に服従す。次に神は無よりしてこの見ゆる物質の世界を造り、終に非物質にして且智識あるの霊魂と物質的の肉身より成るの人を造れり。この斯くして成せる一(ひとり)の人よりして神が非物質と物質的の二世界を造りし者たるを示さんが為なり。此故によりて人を小世界と称す。是れ人は凡て大世界の形状を具ふるが故なり』(正教宗門上篇十八問の答)又神の照管者たる事の教は正教会更に詳に之を東教会総主教の正教書に於て明示す。曰く『我等凡そ見ゆると見えざるの有らゆる万物は皆神の照管を以て造らるるを信ず。然れども悪は悪として神の只之を洞見して許すのみにして自から之を造らざるにより固より之を照管せず。而して既に出たるの悪は其の高尚なるの仁慈を以て之を導いて人の神益と為す。但彼の仁慈は自から悪を造らず、唯之を可能丈け善事に傾くるなり』(第五節)
第二、我輩は明晰にこの教会の教を説述せんが為
[一]初め神が造物主及照管者として神霊界と物質界及小世界たるの人間に対する総体の関係を述べ、
[二]次に神が造物主及び照管者として神霊界に対するの関係と
[三]其の人間に対するの関係を細述せんとす。
何となれば神が神霊界を含有するが故なり。而して神が造物主及び照管者として物質界に対するの関係は教会の教理上特別緊要の点なく、其世界に対する総体の関係を述ぶる時言ふ所を以て已に足れりと為すに由り、更に此関係を細述するの要なきなり。

第一章 神が造物主及び照管者として世界に対する総体の関係の事
 第一 神が世界の造物主たる事
三十二、創造の解。神は世界を創造せり、世界は永遠より存在するに非ず
 一、創造とは之を直解すれば無より物を造り出すの謂なり。故に吾人は神が世界を創造せりと云へば即ち神が
  (甲)啻に己の外に在る所の万物を造りたるのみならず
  (乙)乃ち万物を無より造り
  (丙)随て世界は永遠より存在するに非ず、乃ち時に於て、若しくは時と共に造られたりとの意を顕すなり。
 二、神は凡そ己の外に在る所の万物を造りて世界の原因者なり。此証左の如し
  (甲)預言者ダワィド曰く『イヤコフの神に助けられ、己の主神を恃む者は福なり。即ち天地海及び凡そ其中に在る者を造りし神なり』(聖詠145:5,6)
  (乙)エズドラ曰く『神よ、爾は独り主なり。爾は天及び諸天の天と天の衆軍とを造り、又地及び其中の万物と諸海及び其中の万物を造れり。且爾悉く之を生存し、天の衆軍爾を崇拝す』(ネヘミヤ9:6)
  (丙)使徒パウェルは雅典の「アレオパグ」に於て公言して曰く『夫れ宇宙及び中の万物を造れる神は乃ち天地の主にして、手造の殿に居らず』(行伝17:24)又エウレイ人に与ふるの書に謂て曰く『凡そ家は必ず之を建る者あり。惟万有を建る者は乃ち神なり』(エウレイ3:4)
 三、神は万物を無より造れり。此真理は
  (甲)聖創世記記者の言に由て見ゆ。曰く『元始に神天地を創造せり』と。(創世記1:1)即ち未だ一物も有らせざるときに創造してなり。
  (乙)旧約教会の信ずる所に由て見ゆ。アンティオフの窘逐の時、イウデヤに一の敬虔の婦あり。其子に祖先の宗教を守りて死を甘受すべきことを勧めて曰く『我が子や、爾は天地及び其中に在る所の万物を見て、神が無より此万物を創造し、且人類も亦此の如くにして、即ち無より造られたるを知れ』と(マッカウェイ二7:28)
  (丙)新約に主は万物を創造せりと云ひ(コロサイ1:16 エフェス3:9)、又万物彼に本づき彼に由り彼に終る(ロマ11:36)と云ひ、又万物彼に由て作らる凡そある所の者は彼に由て造られざるなし(イオアン1:3)と云ふの言に由て見ゆ。即ち物質其者も自ら生ずること能はざりしなり。
  (丁)又聖使徒パワェルが我等信に由て世は神の言に由て造られ、見るべき者は見るべからざる者より造られたるを知る(エウレイ11:3)との言及び神は無を称して有と為す(ロマ4:17)と云ふは之が明証なり。
 四、世界は永遠より存在せしに非ずして時に於いて若しくは尚詳に之を云へば時と共に造られたりと為すの意は明に
  (甲)聖詠者の言に見ゆ。曰く『山未だ生ぜず、爾未だ地と全世界を造らざるの先き、且世より世までも爾は神なり』(聖詠89:3)
  (乙)神の子の言に見ゆ。曰く『父、ああ爾今我をして爾と偕に世の未だ有らざる先、我が爾と偕に有せし所の栄を獲せしめよ』(イオアン17:5)
 (丙)同く神の子即ち三位の一たる神の睿智が旧約に於て述べたるの言に於て見ゆ。曰く『永遠より始初より未だ地有らざる先き我膏せられたり。未だ深淵有らず多水の泉源有らざるとき、我已に生まれたり。山尚未だ実らず、陵未だ有らざるの先き、我已に生まれたり』(箴言8:23-25)

三十三、至聖三者の諸位、創造に与かりたること
聖書は概して神が世界を創造せりと為すの(創1:1 イサイヤ45:7 イェレミヤ10:12 聖詠113:23 同133:3 行伝14:15 同17:24 コリンフ前11:12 エウレイ3:4)の外世界の創造を以て之を
 一、神父に帰す。例へば曰く『我等には一の神父あり。万物之よりす』(コリンフ前8:6 エウレイ2:10)使徒の祈祷の言に曰く『主や、爾は乃ち天地海及び其中の万物を造れる神なり』と。此語は至聖三者の第一位たる神父を指すこと疑なし。何となれば下文に曰く『爾は爾の僕、我が祖ダワィドの口を以て聖神に言て曰く、諸属何為ぞ騒ぎ、諸民何為ぞ徒に謀るや。地の諸王興り諸候相集て主と其の基督を攻むと。彼等果たして此城に集りて爾の膏せし所の聖子耶蘇を攻めたり』(行伝4:24-28)
 二、神子に帰す。例へば曰く『万物彼に由て造らる、凡そ有る所の者彼に由て造られざるなし』(イオアン1:3)又曰く『天に在り地に在る者を論ずるなく万物彼に由て造られ......万物彼に由り且彼が為にして造を受く』(コロサイ1:16亦エウレイ1:3参看)
 三、神・聖神に帰す。義人イヲフ此事を謂て神の神(しん)我を造れりと云ひ(イオフ33:4)聖詠者は天は主の言にて造られ、天の全軍は其口の気(神)にて造られたりと云ひ(聖詠32:6又同上103:30参看)又聖創世記記者は神の神(しん)は世界創造の時水面を覆育して、恰も新造の物質に生命を賦するが如き者と為せり。(創成1:2)
[第一]教会の聖師父は至聖三者の各位が世界の創造に与りたるの状を示さんと欲して『父は子に由り聖神を以て世界を造れり』と云ひ、或は『万物は父よりの子に由り聖神を以て造られたり』と云へり。而して此の如き教は聖書に基づくものなり。即ち万物父よりし(コリンフ前8:6 同後5:18)子に由り(イオ一1:3 エウレイ1:2)聖神を以てす(エフェス2:18)と云ひ、又万物彼に本づき彼に由り彼に終る(ロマ11:36)と云ふ是なり。聖大ワシリイ明に此意を述べて曰く『彼等(神使を云)の創造に於て創造の首初の因たる父と造成の因たる子と成全の因たる聖神あるを思ふべし。即ち服事するの神(しん 神使の云)は父の旨に因て其存在を受け子の作用を以て存在に導かれ、聖神の臨在を以て存在に全備せられたり』
[第二](甲)至聖三者の三位共に創造に与かりたりと為すの教は三者一体たるの教と三者皆其本性と神たるの性質に由て全く相同じと為すの教よりして自然に出るものなり而して
    (乙)三者の各位が創造に与かりたるの順序と其多少は全く三者個位の順序と相互の関係に相当するなり。

三十四、神が世界を創造したるの状
神の言を按ずるに神は世界を創造するに
 一、智識及び睿智を以てせりと為す。曰く『主は睿智を以て地を基づけ、智識を以て天を建てたり』と(箴言3:19又聖詠13:55参看)即ち永遠よりの悉くの其の将に造らんとする所の物を洞見せし至極睿智なるの思想に適応して造れり。蓋神は永世より其の凡そ行ふ所を知る。(行伝15:18)
 二、意旨を以てせりと為す。即ち全く其欲する所に循て創造し決して已むを得ざるの事情に由て造りたるに非ざるなり。曰く『我等の神は天に地に凡そ其欲する所を行ふ』(聖詠113:11)『主は凡そ欲する所を天に地に海に諸淵に行ふ』(同134:6)
 三、言を以てせりと為す。『神曰く光あるべしと、即ち光あり......神曰く水中宜く蒼穹あるべしと、是に於て此の如きあり......神曰く天下の水宜く一所に匯り乾土現はすべしと、是に於て此の如きあり』云々(創世記1:3,6,9及其以下)『彼言ふて即ち成り、命じて造られたり』(聖詠148:5)然れども教会の聖師父は茲に神の言と云ふを持て吾人の詞に等しき音声言語を指すと為さず、只彼の無よりして宇宙万物を造りたる神の全能力の指図、若しくは表顕に過ぎずと為す。
 四、吾人の智識を以て全く暁り得べからざることなりとす。曰く『我等信に由て世は神の言を以て造られ、見ゆる者は見えざる者よりして造られたるを知る』(エウレイ11:13)

三十五、神が受造物の重なる種類を創造したるの順序
正教の教に由るに神は最初に神霊界を造り、而て後六日の間に物質世界を造り、終に第六日目に人を造れりと為す。(正教訓蒙第一條の解)
第一、神は最初に神霊界を創造せり。此教の由て基づく所は
 一、聖創世記記者の言なり。曰く『元始に神天地を創造す』と。(創世記1:1)今吾人が目に見ゆる所の天は其蒼穹及び星宿と共に後に至って造られ(同上1:6,8,及14-17)たるが故に、茲に「天」と云ふを以て蒼穹若くは凡そ世人の呼んで天と為す所の者を指すと為すべからず。乃ち聖書に於て常に天に住すと為す(コロサイ1:16)の諸霊を指すと為すを以て当れりとす。何となればモイセイは地即ち太初の物質にありたる如き混沌たる状を以て此の天にありと為さざればなり。若し果して然らんには神使は神より外未だ一物も有らざる時に造られて、神の受造物の首と為りたるなり。
 二、神自らイヲフに語るの言なり。曰く『我星宿を造りしとき我が使悉く大声我を頌讃せり』と(イオフ38:7)茲に神使が第四日に星宿を造られたる時神を讃揚せりと為すを以て見れば即ち之に先て造られたること明なり。
 三、教会の聖師父は神使が物質世界に先つて造られたりと為すを以て確然疑ふべからざることと為せり。例へば
   聖大ワシリイ曰く『世の未だ有らざる先に世界外の諸能力(即ち神使)に適当し、時に越え永遠にして恒に保続するの情状ありたり。万物の創造者及び造成者は此れに主を愛する者の幸福に適当する無形の光と智ありて、見えざる者及び吾人の得て了解すべからざる無形の造物の修飾を造れり。吾人は此造物に付すべき名称をも発明すること能はず。彼等は乃ち見えざる世界を充たすなり』
   神学者聖グリゴリイ曰く『神は最初に神使と天軍とを意ひ、而して其意は乃ち事実と為りて、言は之を成し、聖神は之を全ふせり......初造の者は彼れの悦ぶ所と為りたるに由り、他の見ゆるの物質世界を意ひたり。此れ即ち天地及び其間に在る所の整然たるものなり』
   金口イヲアン曰く『(神は)神使、神使長及び其他の無形体の者を創造せり。而して之を創造するや他の故に非ず、即ち唯其仁慈を以てせり......已彼等を造るに及び前と同じき理由を以て人とこの(見ゆるの)世界を造れり』
第二、神は六日の間に物質世界を造り遂に第六日目に人を造れり。即ち創世期の開巻に記するが如し。吾人はこのモイセイの言ふ所を認めて歴史と為さざるべからず。何となれば
 一、モイセイ自ら之を認めて歴史と為したるに因る。抑々モイセイは此記を以てイズライリ人に世界及び人間の創造者たる神のことの確実正当なるの理解を伝へんと欲して書したる己の史書の開巻に載せたり。故に若しモイセイは茲に何人も解すべからざるの奥妙の意を含ませたらんには、是れ其素志に背きたりと為さざるを得ざるべし。加之モイセイは後イズライリ人に与へられたる安息日の律法を此説に基づくと為し、此法を述ぶる時に当りて益々明に此の六日創造の説を述べたり。彼曰く『爾宜く安息日を記憶して之を聖と為すべし。六日の間は宜く其労して爾の諸工を作すべし。第七日は乃ち爾の主神の安息なり。是日は諸工を作す毋れ......蓋六日の間に主は天地海と其中の万物とを創造し七日に至て安息せり。故に安息日を祝して之を聖と為せり』(出エギ20:8-11)又曰く『イズライリの嗣宜く安息日を守り其歴代に迨るまで之を祝すべし......蓋六日の間に主は天地を創造し第七日に至り安息休憩せり』(同上31:16,17)
 二、他の聖書の記者等はモイセイの言ふ所を認めて歴史と為したるに因る、例へばモイセイは己の書に神は言を以て世界を造り、而して神の神(しん)は其初造の混沌たる物質の上に覆育せり(創世1:2)と記するに、聖詠者は呼んで曰く『天は主の言にて造られ、天の衆軍は其口の気(神)にて造られたり』と(聖詠32:6)聖詠者又曰く『彼言へば則ち成り、命ずれば則ち顕れたり』と(同上9)又モイセイは元始に暗は創造せられたる所の万物を蔽ひ、而して神は光るあるべしと曰へば即ち光あり(創世1:3)と記するに、聖使徒パワェルは其書に謂て曰く『光に命じて暗より照さしむるの神は我等の心を照し、神の栄耶蘇基督の面に顕はるるを知らしむるを致す』云々(コリ後4:6)又モイセイは神が蒼穹以下の水と蒼穹以上の水とを分てり(創世1:7)と記するに、聖詠者は神の諸々の造物を呼んで造物主を頌讃するに当り、諸天の天と天より上なる水や彼(主)を讃め揚げよ(聖詠148:4)と云て此蒼穹の上に在る水のことを記す。又モイセイは神が日月星辰の如き天の列光を造りたるは、一は以て時の号と為さんが為なり(創世1:15)と記するに、聖詠者亦呼んで曰く『主は月を造りて時を定む』と。(聖詠103:19)
 三、教会の聖師父らがモイセイの言ふ所を認めて歴史と為したるに因る、即ちアンティヲヒヤのフェオフィル、イッポリト、大ワシリイ、金口イヲアン、大アファナシイ、アムブロシイ、プロシイ、ニッサのグリゴリイ、エピファニイ、フェオドリト等なり。

 モイセイの言ふ所の六日創造の説に関して注意すべき者左の如し
 一、モイセイは創造を二大種類に区別して順次に行はれたる者と為す。「其一」は即ち真に創造と言ふべきにして造物主が無より万物を造りたる太初の創造なり。即ち元始に神が天地を創造して(創世1:1)世界の有らゆる万物の根原若くは萌芽を含有する所の物質を造りたる者是なり。シラフの明哲なる子も此意を以て世々に生活する者は万物を造れり(シラフ18:1)と云へり。又「其二」は即ち既に備はりたる初造の混沌たる物質より造り出せしことにして六日の間に行はれたる所の創造是なり。ソロモンが神の全能の手は世界を混沌たる物質より創造せり(智慧書11:18)と記するはこの創造を指して言へしこと固より疑なし。
 二、モイセイは全物質世界の起源(即ち世界開闢説(コスモゴニヤ)を述ぶる者にして、一地球の起源(即ち地源之理(ゲヲゴニヤ)を説くに非ず。何となれば、モイセイは始に「天地」即ち全世界を創造せりと云ひ、而して後「光」の創造・「天の蒼穹」の創造幷に「列光」即ち日月星の創造のことを記すればなり。然れども亦一方より之を見ればモイセイは此地と此地上に棲息する者の起源を記するを以て主眼と為し、之を述ふること殊に詳密にして天と天上の諸物に関しては唯此地に関係することのみを述べ、傍ら之を云ふが如きの意を以て記すること固より明かなり。故に例へば天上の列光の創造を記するに当りては唯彼等が此地に関して有する所の関係のみを述べ、之に名を与へ性質を付するにも皆唯この地よりして与へ、且付するを得可き者を以てせり。
 三、モイセイは世界と地球の起源を記する者にして、其改新を云ふに非ず。何となれば元始に神天地を創造せりとお記す。是れ即ち未だ一物も有らざる時に創造せしことを云ふなり。後又神曰く、宜く光有るべしと......天の蒼穹に宜く列光あるべしと云ふ如きも皆是れれ明に曾て一物も有らざりしことを証するの言なり。遂にモイセイは夫れ是の如く天地及び其衆軍皆時始めて備はり、初めて終はれる者にして前にには一物も有らざりしこと明かなり。
 四、モイセイは神が最初の創造に無より万物を生ぜし時のみならず、六日の間彼の已に完備したるの物質よりして世界の諸種の物体を造りし時にも自ら己の直接の能力を以て働きしことを証す。神曰く、宜く光あるべしと。即ち光あり。神曰く、水中宜しく蒼穹あるべしと。是に於て此の如きあり。神曰く、地は宜しく各其類に従いて有生の諸動物を生ずべしと。是に於て此の如きあり云々。是に由て之を観じば世界と地球は万有の勢力と法則に従て成立せりと為すべからざるや誠に明なり。此勢力と法則の世界に其作用を顕したるは既に此世界が其完全の存在を受けたる後にあるものにして、即ち神が此世界に与へたる所の者なり。然れども神が天地を造り己の全能力を以て諸種の物体を造りしときは固より自ら万有の法則と勢力に從へたるに非ず。例へば神が初人を創造するや直に之を成年の者に造れり(地上の諸動物も亦皆然り)。然るに今万有の勢力と法則に循ふときは初人が成年に達するまでは必ず数多の年月を要すべし。
 五、モイセイが所謂創造の六日は尋常の日を謂ふなり。何となればモイセイは各日を分つに昼夜を以てして夕あり朝あり是れ即ち第一日......夕あり朝あり是れ乃ち第二日云々と云へばなり。加之我輩が前に述べたる如く、モイセイは神が六日の間に悉く万物を創造し之を終るに及び、安息して第七日を聖と為せしことに準じてイズライリ人に誡むるに、一週の間六日は操作し第七日の安息日を以て己の主神に献ずべきを以てせり(出エギ20:8-11及31:16)
 六、モイセイが世界の六日創造のことを記するや、其目的普く衆人に了解し易からしめんと欲するに在るを以て、格物学士の如くにして之を述べず。賢明にして神の黙示を蒙れる宗教の師の如くにして之を記す。故にモイセイが万事に関して伝ふる所の理解は皆固より真実なれども、人間一般の思想に適応して之を述ぶ。例へば造物主の高尚なる作用を云ふに当たりて可能丈け其高尚の点に応じて之を述ぶると雖も、有形物に相当する形容を以て之を述べ、物体世界の諸物を記するにも学士の看るが如くに記せずして平人の目に見るるが如くに記す。

三十六、神の世界を創造せし所以、及び其目的
正教会は吾人に此事を教ふること左の如し。曰く『宣く信ずべし。神は仁且至善にして自ら極全極美なれども、亦他の諸物をして己を讃揚し、己の恵に浴はしめんとして無より世界を造れり』(正教宗門上篇第八問の答)是即ち教会は純ら造物主の無限無量の仁慈を以て世界創造の因と為し又世界創造の目的となすなり。
 一、至上者が此宇宙を造りたる所以の意若しくは原因は彼れの無限の仁慈なり。聖書に
  (甲)此意を含む所は神を至極完全のものと為し(マトフェイ5:48)至極光栄の者となし(同23:10)至極幸福の者と為し(ティモフェイ前1:11)何人にも何物にも需し所あらざる者と為し(行伝17:25,26)永遠より世界の有らざるとき独り存在せり(聖詠89:3 エフェス1:3,4)と為すの所なり。是に由て観れば神若し他の諸物を生ずるを欲せずんば意の願はず永遠に至るまでも亦自ら存在するを得ざりしならん。
  (乙)又明かに右の意を顕はす所は、吾人の目を神の造物に向けて主は悉くの者に仁慈なり。其宏慈は作為(しわざ)にありと云ひ(聖詠114:9)或は『吾人をして創造に於て顕れたる神の憐(矜恤)は世々にあればなり......睿智を以て天を造りし者(を讃栄せよ)其憐は世々にあればなり。地を水の上に定めし者(を讃栄せよ)其憐は世々にあればなり』(同上135:1-9)と云ふの言なり。
 二、世界創造の目的は先づ神の栄を顕はすことなり。聖書に
  (甲)概して此意を顕はすは、主が己の為にして万物を造れりと云ひ(箴言16:4)並に万物彼に本づく(エウレイ2:10)と云ふの言にして
  (乙)更に明白直接に此意を顕はすは、天は神の光栄を伝ふと云ひ(聖詠18:1)又全地は主「サワオフ」の光栄を以て充満す(イサイヤ6:3)と証するの言なり。
  (丙)又確然明白に右の意を顕はすは、吾人に誡めて故に宜く爾の身を以て爾の霊を以て栄を神に帰すべし、此れ皆神に属すればなりと云ひ(コリ前6:20)又爾等或は食ひ或は飲み何の行を論せず悉く宜く神の栄の為にして之を行ふべし(コリ前10:31)と云ふの言なり。
 三、世界創造の第二の目的は造物其者をして幸福を享受せしむることなり。若し夫れ神の此宇宙万物を造るや他の諸物をして亦存在の快楽を受けしめ、之をして己の仁慈に浴せしめんと欲し、専ら其無限の仁慈に由て之を造れりとせば、世界創造の目的の一も亦茲に存するや言はずして明なり。神は此目的に応じ常に息まずして己の造物に恵みを施し(行伝14:17)自ら生命と呼吸と万物とを以て衆に予へ(同上17:25)且我等を楽ましめんとして諸物を豊かに賜ひ(ティモ前6:17)万物は其賜に充され(聖詠103:28)悉くの生ける者に恵みを賜ふ(同上144:16)加之徳義心を具ふるの受造物(即ち人間)は其主要の目的たる造物主を讃栄することに趣向しつつ之を以て既に己の幸福を受くるなり。何となれば彼等が直に神を讃栄するには救世主の我等に誡めたるが如く善行と敬虔の生活を以てするの外他に道なし(マト5:16)而して善行の結果は、彼れの幸福の教によれば即ち幸福にして(同上5:3-12)又経験は使徒の言ふが如く凡その事に於て益あり、今世及び来世の応許を得るが故なり。(ティモ前4:8)

三十七、神の造物の善美なること
聖書は凡そ神の造りたる所のものは皆善美に造られたりと為す。即ち 聖創世記記者は創造の日を述ぶるに当りて数々神之を観て前と為すと記し(創世2:4,12,18,21,25)其記を結ぶに当りて曰く『神は其造る所の者を観て甚善と為す』と(同上30)後代の記者も亦皆此意を顕はす。例へば聖詠者曰く『主や爾の工業(しわざ)は何ぞ多きや。皆智慧を以て作れり』と(聖詠103:24)伝道の書に曰く『万物を造る各々美を其の已の時に為せり』と(3:11)聖使徒パワェル曰く『神造る所の者皆美なり』と(ティモ前4:4)

 第二 神が世界の照管者たる事
三十八、神の照管の解、其作用及種類
 一、神の照管とは神が常に其の全能と睿智と仁慈とを以て受造物の生存と勢力を保護し、之をして善良の正鵠をに向はしめ、善は之を幇助し、又善に遠ざかるに由て起る所の悪は之を断ち、若くは之を改めて善良の結果に帰せしむるの作用を云ふなり。(正教訓蒙信経第一條の解)
 二、神の照管の解。果して此の如しとすれば此に三つの作用有るを知るべし。即ち造物を保護し之を幇助し及び治理することなり。造物を「保護」すとは、全能の神が全世界幷に凡そ世の有らゆる万物を其生存を保しめ、併せて其能力法則動作を保護するの作用なり。又造物を「幇助」すとは、至仁の神が造物をして其自己の勢力法則を利用せしめつつ、亦之に己の幇助を顕はし、其働きを為す時に於て之を助くるの作用なり。彼の智識と自由を具ひ神霊的の生活に上達せんが為め常に神の恩寵を要するの人間は殊に深く此作用を感覚するなり。然れども神が人間に対して実際其幇助を顕はすは唯彼等が自ら好んで善を択び之を行ふの時にあるものにして、彼等が恣に悪を択び之を行ふ時の如きは神は只其事を行ふを「放任」するのみにして決して幇助を与ふるに非ざるなり。何となれば神は決して悪を行ふ能はず。而して其の自ら人間に与へたる所の自由は之を奪ふことを欲せざればなり。又造物を「治理」すとは、無限に睿智の神が造物の生命と働きとをして之に預定せられたるの正鵠に向はしめ、悪事は可能丈け之を改めて善良の結果に帰しむるの作用なり。是に由て之を視れば前記せる神の照管の作用は互い相異なる者たること明かなり。即ち保護なるものは造物の生存幷に其勢力と作用とに関係し、幇助は専ら勢力の一点に関し、治理は造物の勢力と作用とに関す。之を約言せば神は世界の万物を保護し、独り善事のみを幇助し、悪事は只人の之を行ふに任し、且万物を治理するなり。
 三、神の照管は通例之を分ち二類と為す。即ち一般の照管及び個々の照管是なり。一般の照管は全世界一般に顕し、又其種類の如何を問はず万物に及ぶ所の者にして、個々の照管は世界の個々の物に及び、微々琑細の者たりとも一として此の照管を愛くざるものなし。正教会が神は『小より大に至るまで詳に万事を知り、又格別に各造物を照管す』(正教宗門上篇廿九問の答)と信ずるは無論照管に右の二種類あるを認むるものなり。

三十九、神の照管の実在
第一、神が世界を照管するの真実なるは、聖書に其証多くして勝て数ふべからず。例へば
  (甲)イヲフの書に曰く『神は知の極を鑒み、遍く天下を観る』(28:24)又曰く『諸活物の気と諸人の霊、其手に在るに非ずや』(12:10)
  (乙)聖詠に曰く『爾地を立てて、地即ち立つ。爾の定に循て皆立て今に至る。蓋悉く爾務む』(118:90,91)
  (丙)マトフェイの福音に曰く『爾の父、天に在る者の子となるべし。蓋彼其日を善者不善者の上に升せ、雨を義者不義者の上に降す』(5:45)
  (丁)使徒行伝に曰く『(神は)未だ嘗て己を無証に遺さず、乃ち人を恵みて雨を天より降らせ、果実時を以て蕃生し、糧食と喜悦とを以て我らの心を満たす』(14:17)
第二、教会の聖師父は、一は神を以て世界の造物主と為すの理解に基づき、一は世界を以て神の創造に係ると為すの理解に基づき、智識上よりして亦照管の真実なることを証せり。
 一、彼等が第一の理に基づきて言ふ所を挙げれば曰く
  (甲)造物主の仁慈の無限無量なるを以て、専ら其仁慈に因て造りたる己の造物を照管せずして之を放棄するの理決して有るなし。
  (乙)又曰く、造物主は在らざる所なきを以て、凡そあらゆる造物と偕にし、直接に其状況と需求を洞観する故に、神にして或は仁慈ならず、或は活動せざらんには、世界を照管することなかる可きも此理決して有るなし。
  (丙)又曰く、造物主は全能なるを以て世界を照管すること甚容易なりと。
 二、教会の諸師が世界を観察して特に其意を注ぐ所は
  (甲)世界は素と無よりして存在を受け、恒に無の下に在るを以て神の照管なくんば自ら存在すること能はざるべしと云ふの点と
  (乙)世に神の照管なくんば、今吾人の目撃するが如き整々の秩序此世に行はれずして、物皆其界を越へ、秩序紛乱して自滅を招くべしと云ふの点にあり。

四十、神の照管の各作用幷其二大種類の実在
第一 聖書は概して紙が世界を照管すと為しつつ、亦其照管に三つの作用ありと為す。乃ち神は
 一、造物を保護すと為す、
  (甲)聖詠者は百三の聖詠全篇に於て之を詳述し、殊に左の諸節に之を明示す。曰く、彼等は皆爾より時に随ふて食物を予ふるを持つ(27)、彼等に予ふれば受け、爾の手を開けば賜に饜され(28)、爾の顔を隠せば懼れ、彼等の気を取上れば死して塵に帰る(29)、爾の気(神(しん)を施せば造られ、爾は亦地の面を新にす(30)
  (乙)使徒パワェル曰く『神は需つ所ある者の如く人手の事ふる所とならず、自ら生命と呼吸と万物とを以て衆に予ふ』(行伝17:25)
 二、造物を幇助し及び放任すと為す。聖書に神が造物就中徳義心を具ふるの人間を幇助すとの意を顕はずこと左の如し。曰く『神は其大能の言を以て万物を扶持す』(エウレイ1:3)曰く『生を万物に施す』(ティモフェイ前6:13)曰く『神は己の善意に循ひて我等の中に行ひ、我らをして志を立て、事を行はしむ』(フィレモン2:13)曰く『我ら彼に頼りて生き、且動き、且存す』(行伝17:28)是なり。又聖書は神は放任の意を示す。例へば聖使徒パワェル異邦人のことを謂て曰く、此に縁て神は其醜慾を縦にするを聴せりと。(ロマ1:26)又イウディヤ人のことを謂て曰く、神之に賦するに昏昧の霊、見ざるの目、聞かざるの耳を以てせりと。(同上11:8)
 三、造物を治理すと為す。神のこの作用を証するものは
  (甲)ダワィド王の祈祷なり。曰く『主や、大と能と栄と勝と威と偕に爾に属す。蓋凡そ天に在り、地に在る者皆爾に属す・・・爾の手に能と力あり。凡そ物をして大たらしめ且堅ふするは皆爾の権内にあり』と(歴代上29:11,12)
  (乙)預言者ダニイルの言なり。曰く、彼れ時と序とを変じ、王を廃し、王を立て、智慧を以て智慧者に賜ひ、知識を以て明哲者に賜ふ。(ダニイル2:24)
第二、また聖書は神の照管の作用を概して、世界と諸種の物体に及ぶのみならず、亦特に其創造したる所の各物体に及ぶと為す。即ち啻に一般の照管あるのみならず、個々の照管ありと為す、此意は
 一、聖詠者の言に見ゆ。曰く『悉くの者の目は爾を望む、爾は時に髄ふて彼等に糧を賜ふ。爾の手を開き恵を以て悉くの生きる者に飽かせ給ふ』(聖詠144:15,16)又曰く『琴を以て我が神に歌へよ。彼は雲を以て天を覆ひ、地の為に雨を備へ、山に草を生じ、人の需めに野菜を生ぜせしむ。食を以て獣に予へ、彼を呼ぶの鴉の雛に予ふ』(同上146:7-9)
 二、救主の言に見ゆ。曰く『爾の父、天に在る者の子となるべし。蓋彼其日を善者不善者の上に升せ、雨を義者不義者の上に降す』(マトフェイ5:46)『試に天空の鳥を観よ。彼れ稼せず、穡せず、倉に積まず。然れども爾の天父之を養ふ。爾は鳥より貴きに非ずや』(同上6:26)『試に思へ。野の百合の花如何にして長ずるや。彼れ労せず、紡せず。惟我爾に語らん。ソロモンは栄華の極に於てうら其衣猶この花の一に及ばず。夫の野草今日存して明日炉に投ぜらるるも、神猶之を衣被ずる此の如し。況や爾等小信の者をや』(28-30)『一雀は一分金の為にして售らるるに非ずや。若し爾の父許さずば則ち其一も地に隕ず。爾の頭髪も亦皆数へらる』(10:29,30)

神が己の悉くの造物を照管せずと為し、若くは彼れの照管は唯世界の大なる物体と物体の大種類を包括するのみにして微々たるの小物体にまで其効用を及ぼさずと為すことは、神が其の悉くの造物を照管する能はざるか、若くは之を照管するを欲せずと為すに非ずんば言ふ可らざることなり。然れども神は知らざる所なく、至極睿智にして且全能なるを以て第一の説を可とする能はず。又神は無限に仁慈して且常に動作するを以て(イオフ5:17)第二の説をも可とする能はず。神若し独大なる物体のみならず瑣細微小の者を創造するも自ら己の威厳を損する所なしと思惟したらんには、之を照管するも亦敢て其威厳を損するの理なし。況や物体は唯其相互の比較と吾人の見る所に由て大小の差を呈するに過ぎずして、造物主、全能者の無限の威厳に対しては世に一も大なる者なく、亦凡そ神の之をして存在を得せしめたる所のものならば、彼れの無限の仁慈に対して一も小なる者あるなきに於てをや。

四十一、至聖三者の諸位照管に与かること
聖書は照管の事も亦創造の事の如く神の三位皆之に与ると為す。即ち照管を以て
 一、神父に帰す。例へば救主の言に曰く『爾の父、天に在る者の子と為るべし。蓋彼其日を善者不善者の上に升せ、雨を義者不義者の上に降す』(マトフェイ5:46)』『試に天空の鳥を観よ。彼れ稼せず、穡せず、倉に積まず。然れども爾の天父之を養ふ』(6:26)
 二、神子に帰す。聖使徒神子のことを謂て曰く『彼万物に先立ち、万物彼を以て立つ』(エウレイ1:3)
 三、神聖神に帰す。聖詠者は神父を呼んで云ふの言に於て、聖神が物体世界を照管するの意を述べて曰く『彼等は皆爾より時に随ふて食物を予ふるを待つ。彼等に予ふれば受け、爾の手を開けば賜に饜され、爾の顔を隠せば懼れ、彼等の気を取上ぐれば死して塵に帰る。爾の気(神(しん)を施せば造られ、爾は又地の面を新たにす』(聖詠103:27-30)と。又使徒は聖神が道徳界を照管するの意を述べて曰く『恩賜殊なるあり。惟神(しん)は同一なり・・・神の顕、各人に賜ふて益を獲せしむ・・・此等の事を行ふは同じ此れ一神の意に任せて各人に頒与するものなり』(コリンフ前12:4,7,11)

第弐章 神が造物主及照管者として神霊界に対する関係の事
四十二、神霊界の善霊及悪霊に区別せらるること幷神が造物主及照管者として彼らに対するの関係
正教会の教に依るに、神霊界は二種の霊よりして成る。一は即ち善霊にして別に神使と称せらる。二は即悪霊若くは魔鬼なり。神は此魔鬼をも善霊に造りたれども、其意に由て悪と為れり(正教宗門上篇19-21問の答)。神が造物主として善霊と悪霊に対するの関係は相異なる所なし。即ち神は二者が均しく存在を賜ひ、亦之に同一の本性、勢力、才能を賦与したり。然れども照管者として善霊と悪霊に対するの関係は相同じからず。即ち善霊に対しては其の善事を行ふを助け、其存在の目的に応じて之を治理し、悪霊に対しては曾て其の罪に陥るを聴し、今又其の悪を行ふに任せ、只之を制限して、可能善良の正鵠に向かはしめんとす。

 (訳者云。善霊悪霊の「霊」の字並びに鬼あるいは汚鬼の「鬼」の字は原文聖神の神(しん)と同字なり。故に之を神(しん)に改むべき筈なれども、神使を指して善神と云ひ、悪鬼を指して悪神と云ひ、又は神(しん)或は汚神と称するは甚紛はしきを以て茲に霊若くは鬼と訳せり。)

 第一 善霊即神使に対するの関係
四十三、神使の解、其存在の確実なること及彼等の神に造られたること
第一 「アンゲロス」(希臘語訳すれば使者、報信者の義)とは職称にして、其性質を示すものに非ず。故に聖書に於て「イエゴワ」の諸々の使者即ち其旨を人に報ずるの諸人に此称を付するも亦怪むに足らざるなり。例へばモイセイに付し(民数20:16)、其他の預言者に付し(ハガイ1:13、イサイヤ33:7)、救主の前駆に付し(マトフェイ11:10)、諸使徒に付し(ルカ9:52)、教会の司長に付する(マラキ2:7、黙示1:20,2:1)の類なり。然れども聖書に於て真に神使(アンゲロス)と称する所の者は神と異なり、又人と異なる一種特別の神霊的の者なり。而して此者たる実地存在する者にして想像的の者に非ざるなり。即ち
 一、イヲフの書に載する所を見るに曰く『人豈神より義ならんや。人豈其行ふ所に於て過なからんや。祝哉神、其僕を信ぜず其使に欠典を視る』と(イオフ4:16,17)。此には明かに神使を以て神と区別し、又人と区別し其本性に由て人より稍高尚なる者と為すなり。
 二、聖詠者は稍々其語気を強うして人と神使の間に亦右の如き比較を為す。曰く『主や人は何物たる。爾之をを憶ふや。人の子は何物たる。爾之を顧るや。爾は彼を神使より少く降らしめ光栄と尊敬を以て之に冠らせたり』(聖詠8:5,6)
 三、救主基督教へて曰く
  (甲)『凡そ人の前に我を認むる者は人の子も亦将に彼を神の使の前に認めんとす。第、人の前に我を諱む者は我必ず彼を神の使の前に諱まんとす』(ルカ12:8,9)と。是に由て之を観れば、神使は人類と異なる一種特別の受造物たるや明なり。
  (乙)『彼の日、彼の時、人之を知るなし。即ち神使と人子と亦之を知らず。惟父之を知るのみ』(マルコ13:32)と。茲には神使を以て天に居る者人よりも完全あるの知識を有する者と為し、且父及び子の実在するが如く疑いなく存在する者と為すなり。
  (丙)『夫れ、復生の時娶らず嫁がず、乃ち神の使の天に在るが如し』(マトフェイ22:30)と。此語は無論神使を以て実在の者と為す者なるに、救主が神使存在の理を否斥したる「サドケイ」人(行伝23:8)に対して之を述べるたるに由て、益々其意の深きを知るべし。
 四、使徒パウェルは其最愛の門徒ティモフェイに書して曰く『我神と主耶蘇基督と其の選を蒙りたる神使を以ての前に於て爾に諭して此を守らしむ』(ティモフェイ5:21)と。若し夫れ此の如く使徒は神・父及び主耶蘇と偕に神使を以て証者と為すとせば、自ら之を以て実在の者と為すや言はずして明なり。又使徒はエウレイ人に与ふるの書に於て救主を神使に比して曰く『彼れの神使に超越する猶彼が得る所の名の神使より尊きがごとし。蓋神何の神使に対して曾て爾は乃ち我が子、我今爾を生めりと云ふや・・・又冢子をして世に入らしむる時曰く、神の使皆当に之を拝すべしと』(エウレイ1:4-6)
第二 神使の神に造られたることは聖書が神の子を指して万物之が為に造られ、凡そ造を受る者之に由て造られざるなしと云ひ(イオアン1:3)、又は『万物彼に由て造を受く天に在る者と知に在る者、見るべきものと見る可らざる者、或は宝座、或は主制、或は権柄、或は能力を論ずるなく万物彼に由り且彼が為にして造を受く』(コロサイ1-16)と云ふの言を以て之を明示す。茲に“見るべからざる者”とは見るべき物質世界に相反する神霊界のことを云ふものにして、“宝座”と云ひ“主制”と云ひ“権柄”と云ひ“能力”と云ふは他の諸書に由て見ゆるが如く(ペトル前3:22、エフェス1:20,21)神使の階級の称を指して云ふものなり。

四十四、神使の性質
神使の性質によれば無形体の神(しん)にして人の霊魂よりは稍々完全なれども限ある者なり。
 一、神使は神(しん)なり。聖書明に此事を教示す。即ち
  (甲)概して神使を指して彼等皆服地の霊(神(しん)にして、凡そ救を得んと欲する者に服事せんが為め遣はされるる者に非ずや(エフェス1:14)と云ひ
  (乙)又細かに之を云へば神霊の固有の性質即ち智と意とを具ふると為して彼等は吾人の救贖の奥義を察せんと欲するの望ありと云ひ(ペトル前1:12)、此世の末日を知らずと云ひ(マルコ13:32)、彼等は聖なる者なりと云ひ(マトフェイ25:31)、又
  (丙)彼等を以て神を観る者(マトフェイ18:10)、神を頌讃する者(イサイヤ6:3)、神の旨を行ふ者(聖詠102:20)と為す。
 二、神使は無形体の神(しん)なり。能く聖書の言を玩味せば此意明なるべし。即ち聖書は神の神(しん)たるを証して神は乃ち神(しん)なり(イオアン4:24)と云ふが如く亦神使の神(しん)たるを証す(エフェス1:14)。而して神(しん)には骨肉なく(ルカ24:39)、救主基督が復生の後、閉じたるの戸を通りて其門徒の処に至りたるが如き栄せられたるの肉体(イオアン20:19)も尚且之を有せずと為す。又神使は肉身を有するの人々に反して娶らず嫁がずと云ひ(マトフェイ22:30)且死する能はずと為す(ルカ20:35,36)。教会の聖師父等も明に神使の無形体なるの教を述ぶ。例へば
  (甲)聖アファナシイ曰く『神使は有智非物質的にして謳歌する不死の者なり』と。
  (乙)ニッサの聖グレゴリイ曰く『智識を具ふるの受造物は無形体の者と肉身ある者の二つにに分くる。無形体の者は即ち神使にして、肉身あるものは即ち我等人間なり』と。聖金口曰く『神は神使、神使長及び其他の無形体の者を造れり』と。ダマスコの聖イヲアン曰く『神使は有智、自由、無形体にして神に服事する者なり』と。
 三、神使は人の霊魂より稍完全なれども有限なるの神(しん)なり。完全なれども有限なるは
  (甲)概して其本性に由るなり。聖詠者が人は神使より少しく降れる者なり(聖詠8:6)と云ふの言に於て此意明かなり。是即ち神使は人に勝ると雖も惟少く勝るのみ。又使徒パウェルが神の独生の子が神の威厳を具ふることを証するに当りて、神の子が神使に超越すと云ひ(エフェス1:4,14)幷に使徒ペートルが人間の食材主が其肉身を以て天に昇りたる後受けたる所の栄を象りて神使、主制、能力、皆其下に服せりと云ふ(ペトル前3:22)は亦皆此意を含めて云ふものなり。
  (乙)其智に由るなり。使徒等が救主に此世の末日のことを問ひたる時之に謂て曰く『彼の日彼の時人之を知るなし。即ち神使と人子と亦之を知らず。惟父之を知るのみ』(マルコ13:32)と。是に由って視れば神使の知識が人の知識よりも高尚なることと此智識に際限あること明かなり。
  (丙)其力と能とに由るなり。聖書に神使は力と能とを以て吾人に勝るを証す(ペトル後2:11又聖詠102:20参看)。然れども神使の能には際限ありて自ら奇跡を行ひ得可きが如く大ならず。主神イズライリの神独り奇跡を行ふ者は讃揚せらる。(聖詠71:18)

四十五、神使の数及其階級即ち天の神品職(イエラルヒヤ)
第一 聖書は神使の世界を非常に広大なる者に象る。旧約の機密洞見者の一人は夢に於て亘古より常に在る者其宝座に坐するとき、之に役事する者千々あり、其前に侍坐する者万々あるを見たり(ダニイル7:9,10)。又旧約の機密洞見者は神の位の四周にある衆神使の声を聞き・・・其数万々千々なるを観たり(黙示5:11)。又神の子が人類を救うが為此世に降臨したる時衆天軍之を讃美せり(ルカ2:13)。主は其万々の聖神使と与に臨み、以て鞫を衆に行ひ、諸々不敬虔の人を責めんとす(イウデヤ14)。凡そ誠心救主基督を信ずる者は亦皆神使の衆軍と相交はるに至るべし(エフェス12:22)
第二 此の如く、勝て数ふべからざる多くの神使は特別の階級に分たる。使徒パウェルが神の子のことを謂て万物彼に由て造を愛く。天に在る者と地に在る者、見るべきもの見るべからざる者、或は宝座、或は主制、或は執政、或は権柄を論ずるなく、万物彼に由り且彼れの為にして造を愛くと云ひ(コロサイ1:16)、又救主が昇天の後に得たるの栄を象りて、父は天に於て之を己の右に坐せしめ、諸の執政、権柄、能力、主制に越へしめたりと云ふは(エフェス1:20,21)是れ明かに神使の解級の区別を示す者なり。加之聖書が神使に付するの名称を以て見るも、其位の相異なるを知るに足る。例へば一を神使と名づけ(ペトル前3:22)、一を神使長と名くる(フェサロニカ前4:17、イウデヤ9)が如き是なり。教会の此事を信ずることは第五全地公会(五百五十三年)に徴して之を知るべし。当時オリゲンは説を為して、神使は其能力と位に由て互に全く同等にして、始め階級に分たるるが如きことなかりしも、後其中罪に陥る者あるに及んで其間に階級を生ぜりと主張せしに、公会は其説を否定せり。
第三 細かに之を云へば正教会は天の神品職の階級を教ふること左の如し。曰く『神使は九品に分れ、而してこの九品は更に三級に分る。第一級に居る者は神に尤近き者にして、即ち宝座、ヘルウィム及びセラフィムなり。第二級に居る者は主制、権柄及び能力なり。第三級に居る者は神使、神使長及び執政なり』と(正教宗門上篇第廿問の答)。此の如きの分割は
  (甲)一は聖書に基づく。聖書に悉くの右に挙げたる神使の級称を載するを以て之を証すべし。即ちヘルウィム(創世3:24)、セラフィム(イサイヤ6:1-8)、能力(エフェス1-21、ロマ8:38)、宝座、執政、主制、権柄(コロサイ1:16、エフェス1:21,30)、神使長(フェサロニカ前4:16、イウデヤ9)及び神使(ペトル前3:22、ロマ8:38)等の名称を記し、而して此神使の九階級の名称の外は一も記する所なし。
  (乙)然れども其の首として基づく所は聖伝にあり。聖ディヲニシイ・アレオパギトは此伝は直に其師たる聖使徒パウェルの口より出たると為して曰く『神の言は天の悉くの能力(階級)を称するに九つの載然相異なるの名称を以てし、而して我が聖神師は之を三品づつの三級に分てり』此外此の如く神使を九に分つこと、若しくは少くも神使の九品の名称を枚挙することは使徒の規律幷に捧神聖イグナティイ、神学者聖グリゴリイ、金口聖イヲアンの書に見え、問答者聖グリゴリイ、ダマスクの聖イヲアンの書に於て更に詳かなり。

四十六、神は善神使を幇助す
神が善神使を幇助すと為す教会の教は左の言に於て見るを得可し。曰く『彼等(即ち神使の階級)は順を以て相列り、下なる者は上なる者に由て神の開牖(ヒラキ)恩賜(めぐみ)を受く。此神使は永く神の恩寵に固定して・・・己に罪を犯すを得ざるに至れり。然れども其性に由るに非ず乃ち神の恩寵に由りて然るなり』(正教宗門上篇第廿問の答)之を詳言すれば
第一 神は神使が真理に趨向することに於て其智を幇助し、之に啓廸黙示を予ふるなり。聖書に此説を証するは
  (甲)神使は天に在りて(マトフェイ22:30、マルコ13:32)神の宝座を囲繞し(コリンフ6:2)常に天父の面を観る(マトフェイ18:10)と云ふの言なり。神使は已に神の面を観るとせば直に神を識り、神に由て諸物を知るや明なり。
  (乙)神を霊妙の光(イオアン一1:5)及永久の光(イサイヤ60:19,20)と称するの言なり。神果して光なりとせば何より先きに且何よりも多く己の宝座を囲繞するの諸神使を照すや明かなり。
  (丙)又神は己の旨を人々に伝へんが為め特別の状を以て屡々之に其旨を啓示すと為すの所なり。(行伝8:26、ルカ1:26-38及び其他)
第二 神は己の全能の恩寵を以て神使が凡そ自由の意旨を以て行ふ所の事を幇助す。神使は此恩寵の佑助によりて既に善に固定して今罪に陥るを得ざるの勢と為れり。後亦決して変ぜざるべし。
 一、神は其恩寵を以て神使が自由の意旨を以て行ふ所の事を幇助すと為すの説は、一は神使も己れに生命を有せず(イオアン5:26)、これを生命の源(聖詠35:10)より受けたる有限の者なるが故、己の生命と作用を保護せんが為めには常に必ず神の幇助を要し、且諸の造物と同じく神より食物を予ふるを待つ(聖詠103:27)の理に基くなり。蓋神使の食物は神の恩寵の外、他に之なかるべし。又一は聖書に教ふるが如く神が其の大能の言を以て万物を扶持し(エフェス1:3)生を万物に施し(ティモフェイ前6:13、ネヘミヤ9:6)其手に諸活物の気を握る(イオフ12:10)の理に基づくなり。蓋茲に万物と云ひ諸活物と云ふの言には神使をも含むなり。
 二、又神使が神恩の佑助によりて已に悪に傾かずして永く善に固定したりと為すの説は、聖書に神使を神の僕或は神の旨を行ふ者(聖詠102:21、又マトフェイ6:10参看)及び神の選を蒙りたるの神使と称し(ティモフェイ前5:21)又天に在りて神の左右に持する者(マトフェイ22:30)神の面を観て楽む者(同18:10)と称するの言と、神使が世の終に至るまで“聖にして”主は生者死者を審判せんが為に之と偕にして世に臨むと云ひ(マトフェイ25:31)且彼等は天に在る凱旋の教会(エフェス12:22,23)若くは“永遠に”存在せんとする光栄の国に属す(黙示22:5)と為すの言を以て之を証すべし。

四十七、神は善神使を治理す(甲)神使の神に対する務
第一 正教会の教に依るに『神使は神が之をして己を頌讃し己れに事へしめ、且此世に於て人々を助けて之を神の国に導き入れしめんが為に存在を付したる者なり』(正教宗門上篇第十九問の答)故に全能者の神使を治理するは、其創造の目的に応じて之をして
  (甲)己に事へしめ幷に
  (乙)人々に事へしむるにあり。
第二 神使の神に対する務に二種あり即ち
 一、彼等は一には神の前に侍立し、神を拝し、神を頌讃するを以て直接に神に事ふるなり。預言者イサイヤはセラフィム等が神の宝座を囲繞し相呼んで、聖なる哉聖なる哉聖なる哉、主サワオフ全地は其栄光に充満すと云ふを見たり(イサイヤ6:3)。又預言者ダニイルは亘古より常に在る者天の宝座に坐して千々の神使之に役事し、万々の神使其前に侍立するを見るを得たり(ダニイル7:10)
 二、又神使は二には神が世界及び人類を照管するの具となりて間接に神に事ふるなり。聖書は彼等を特に「アンゲロス」(希臘語使者の意)(エウレイ1:4,6)或は主の使(同上1:20)と称して此説を確証す。蓋此言は神使が神に托せられたるの事を行はんが為め世に遣はさるる者たるを示すなり。又聖書に之を神の能力及び其旨を行ふの役者と称す(聖詠102:20,21)。旧約及び新約の教会史を見るに神使が実に人々に事へるが為め此世に遣はされたるの例証勝て数ふべからず(創世18,19,28章、ダニイル9:21、ザカリヤ3:1、ルカ1:28、マトフェイ1:20、行伝5:19、同12:7及び其他)

四十八、(乙)神使の人々に対する務、守護神使のこと
神使は概して神が人々を照管するの具と為るのみならず正教会の教ふるが如く、主は各信者に特別の守護神使を賜ふ(正教訓蒙信経第一條の解)。此守護神使のことの教は聖書に確然基く所あり。
 一、此教の形跡は既に旧約書に存す。例へば聖詠者の言に見ゆ。曰く『主の使は主を畏るる者を環衛(めぐりまも)りて彼等を援く』(33:8)又曰く『悪は爾に臨まず。疫癘は爾の住所に近づかざらん。蓋爾の事を己の使に命じて凡そ爾の路に爾を護らしめん』(90:10,11)
 二、新約に於て救主自ら謂て曰く『爾慎て此小子の一を軽視する毋れ。蓋我爾に語らん。彼等の使は天に在て常に我が天父の面を観る』と(マトフェイ18:10)。此言には凡そ基督を信ずる者には各其の特別の神使即ち守護者有るの教を含むこと昭乎として明なり。何となれば
  (甲)救主の談話の首尾を観察するに彼れが小子若くは孩提と云ふは心霊上幼稚なるの意を以て己の門弟を指し且
  (乙)彼は実に之を指して彼等の使と云ひたること明かなり。是即ち彼等各人に付けられたるの神使と云ふ意なり。
 三、聖書に斯の如き明白なる教あるの故に因て各「ハリスティアニン」に特別の守護神使ありと為すの神は使徒時代の教会にも既に存在せり。ペートルが神使に由て奇跡を以て獄より救ひ出され突然信徒の集会せし家に至りし時、信徒は不意に驚き肯て其事実を信ぜずして思ふに、是ペートルに非ずして其神使ならんと云へり。曰く『是則ち其神使のみ』と(行伝12:15)
 四、各人に守護神使ありと為すの説は又使徒パワェルが神使を指して彼等皆服事を為すの霊にして凡そ救を得んと欲するの嗣業者に服事するに県は去るる者に非ずや(エフェス1:14)と云ふの言を以て証するを得べし。若し夫の神使は果して救を嗣がんと欲する者に服事するが為め遣はさるる者とし、而して凡そ基督に由て洗を受け之を信じる者は皆固より此の救を得んと欲する者に属すとせば、神使が基督を信ずるの各人に服事せんが為め遣はさるる者たるは固より言を俟たざるなり。

古時の教会の聖師父は啻に異口同音各人の守護神使の実在することを教へたるのみならず、可能詳かに此教理を説明せり。彼等は
[一]守護神使は果して何人に如何なる時よりして予へらるるや、
[二]而して既に一たび之を賜はれば恒に離れずして相偕にするや、
[三]彼が人に服事するの務は如何なるや、
等の事を説明せんことを努めたり。
 一、著名なるの諸師は聖詠者が主の使は唯神を畏るる者のみを環衛すと云ふの言(聖詠32:8)と救主が小子即ち己を信ずる者の使が常に天父の面を観ると云ふの言(マトフェイ18:10)並に聖使徒が神使は唯救を嗣がんとす欲する者に賜はると云ふの言(エフェス1:14)に基づきて守護神使は普く衆人に予へらるるに非ずして、独り「ハリスティアニン」にのみ予へらる、故に之を予へらるるは人が「ハリスティアニン」と為るの時、即ち其洗礼を受るの時に在りと為せり。
 二、又古時の諸師は聖詠者が神使は唯神を畏るる者のみを環衛す(聖詠33:8)と云ふの言に基きて
  (甲)守護神使は常に各信者と偕にして彼が神を畏るるの心を失はざる間は畢竟之を離れずと雖も
  (乙)「ハリスティアニン」若し神を畏るるの心を失ひ不虔の行を為すときは守護神使之を離るることあり。或は言を換て云へば我等の罪は我等の神使を逐ふて我等より離れしむるを得可しと論定せり。
 三、又教会の諸師は聖使徒が彼等皆服事を為すの霊にして、凡そ救を嗣がんと欲する者に服事するに遣はさるるに非ずや(エフェス1:14)と云ふの言に応じて、守護神使の吾人に対する務(即ち服事)は神の旨に循て吾人の救贖に助力するにありと為せり。
細かに云へば教会師父の説に依るに、神使は
  (甲)信と敬虔のことに関して吾人の正確なる教誨者(歴王下1:3、同15-17、ザハリヤ2:3)
  (乙)吾人の霊身の守護者(聖詠90:10,11)
  (丙)吾人の為に神の前に祈祷代求する者(マトフェイ18:10、黙示8:3、トビト12:15-20)
  (丁)臨終の際にも吾人を離れずして死者の霊魂を永遠の国に導く者なりとす。(ルカ16:22)

 第二 悪霊に対するの関係
四十九、悪霊の種々の名称及其存在の確実なること
第一 神の言は善霊のことを云ふと共に悪霊のことを云ひ(ルカ7:21)之を汚鬼と称し(マトフェイ10:1)悪霊と称し(エフェス6:12)鬼と称す(ルカ8:30,33,35)。又之を細かにしては神の言は彼等の間に一の首たる物を区別して通例之を魔鬼(ディアヲル)(ペトル前5:8)試惑者(マトフェイ4:3)「サタナ」と称し(黙示20:2,7)、又時としては之を「ウェリゼウル」(ルカ11:15)「ウェリアル」(コリンフ6:15)斯世の君(イオアン12:31)空中の権を秉の君(エフェス2:3)鬼王と称し(マトフェイ9:34)而して他の悪霊は之に対して魔鬼の使(マトフェイ25:41)或は「サタナ」の使と称す。(黙示12:7,9)
第二 旧約書よりして見ゆ。旧約書を按ずるに神の使が神の面前に顕はれたる時、魔鬼も亦屡々之と共に顕はれたることを記し、而して後魔鬼が全能者の許を得て義人イヲフを試みたる多くの災難を詳述す(イオフ1:6,2:2及其以下)又主の神(しん))サウルを離れたる時悪霊之に臨みたりと云ひ(サムイル前18章)又魔鬼はイズライリを害せんと欲し、ダワィドを誘惑してイズライリの数を核へしめたりと云(歴代上21:1)又ザハリヤは預言の異象に於て祭司長耶蘇が主の使の前に立ち而して魔鬼は耶蘇の其告訴者と為りて其右に立つを見たり(ザカリヤ3:1)、又叡智者は魔鬼の嫉妬に由りて死は世に入れりと証す。(叡智者2:24)
 二、新約書よりして益々明に之を知る。此事証せんが為に二三の例証を挙ぐるを以て足れりとすべし。即ち
  (甲)「ファリセイ」人が救主を罪して彼れ鬼王「ウェリゼウル」に籍て鬼を逐ふのみと云ひし時(マトフェイ21:24)救主は「ウェリゼウル」及魔鬼が実在の者に非ずと云はざるのみならず、若し「サタナ」は「サタナ」を逐はば是自ら相分争するなり。其国何を以て立つや。若し我「ウェリゼウル」に籍て鬼を逐はば爾の子弟誰に籍りて之を逐ふ也アと云へり。(同上26-29)
  (乙)公義なるの審判者が座員に向て爾詛を受る者、我を離れて永火に入れ、乃ち魔鬼及び其使の為にして備ふる者なり(マトフェイ25:41)と云ふの恐るべき宣言に於て魔鬼及び其使は悪人と区別せられ、已に永久の罰を課せられたる実在的の者とせらるること明かなり。
  (丙)使徒イヤコフ曰く『群鬼亦之を信じて戦慄す』と(イヤコフ2:19)是即ち彼等は智識を具ひ思考力を有するの者たるや明なり。
  (丁)使徒パワェル書して曰く『我等「サタナ」に勝たるるを免れん。蓋我等其詭計知らざるに非ず』と(コリンフ後2:11)是即ち魔鬼を象りて思考力を有する者と為すなり。又彼は他書に於て真理に逆ふ者が彼の己の意に任せて罪せし魔鬼の網を脱せんことを希望するの意を表し(ティモフェイ後2:26)以て魔鬼が自己の意旨を有する個体的の者たるを教示せり。

五十、悪霊は初め善霊に造られたれども自ら悪霊となれり
此事は苟も神を以て至全完備の者と為すときは疑を容れずして信ずべきの真理にして、聖書に明かに此理を示す。救主基督はイウディヤ人の不敬虔なるを責むるに当りて曰く『爾は爾が父魔鬼に属し且爾が父の慾を行はんと欲す。蓋彼れ始めより人を殺す者たり。又真理に居らず』と(イオアン8:44)。魔鬼若し今真理に居らずとせば、即ち始め真理に居たる者にして之を離れたるは魔鬼其者の意に由るや言はずして明かなり。又使徒ペートルが神は既に罪を犯すの神使を容さず。乃ち之を幽暗の縲絏に付し、禁錮を受けて以て審判を待たしむ(ペートル後2:4)と云ふを以て見れば、罪に陥りたるの神使は初め無罪の者に造られたれども、自ら罪を犯し之に由て罰に定められたるを知るべし。使徒イウダの書に神は己の本位を守らず其所を離れたるの神使を永遠の縲絏に付し、幽暗の処に存して大日の審判を待たしむと記す(イウダ6節)。茲に神使は其本位を守らずと云ふは即ち土其の元始の状態、其本来の位置を守らざるを云ふ者にして、其所を離れたりと云ふは即ち其元始の状態に適応したるの住所を離れたるを云ふ者なり。

他の諸霊を率ひて罪に陥りたる魔鬼が傲慢に由りて罪に陥りたりと為すの説は古より基督教会に存せり。而して施設は神の言に確然基づく所あるなり。使徒パワェルは新に領洗したる者は何人たりとも之を主教に叙すべからずとの法を予ふるに当たりて、恐らくは彼自ら驕りて魔鬼の擬に陥らんと云へり(ティモフェイ前3:2,6)是即ち恐くは彼自ら驕りて魔鬼の服したるが如きの刑に服せんとの意なり。若し義の法に循て刑同じきときは、罪亦同じき者とせんには今使徒の言に由て考ふれば、魔鬼が傲慢に由て罪に陥りたりと為すは理の常に然るべき所なり。又シラフの智子は概して罪のことを論じて罪の始は傲慢なりと云へり(シラフ10:15)。されば此世に始て出でて後世の諸罪の根元と為りたるの罪、即ち魔鬼の犯せし罪にも亦此語を当つるを得可し。
 二、悪霊は如何程深く罪に陥りたる乎との問に対しては教会の諸師常に之を弁明して、彼等の罪に陥りたること甚深くして已に再び起つこと能はざる程なりと云へり。神の言も之を証して罪に陥りたるの神使は幽暗の処に守られて大日の審判を待ち(イウダ6)且之が為に已に永火を備へられたりと云ふ(マトフェイ25:41)。抑彼等の悔改する能はざるは何の故ぞや。他なし彼等は純乎たるの神霊にして毫も物質的の形体を有せず。随て肉体上の誘に引るることなきに由り其罪に陥りたるは専ら自己の意旨を以て思考したるの決心と、純ら悪に傾くの念に由て陥りたるが故なり。加之彼等は頑然剛腹神に抗敵するを以て罪に陥りたり。ロストウの聖ディミトリイ曰く『罪に陥りたるの神使剛愎実に甚くして已に決して悔改すること能はざるに至れり』と。

五十一、悪霊の性質及び其数
第一 悪霊は其罪に陥らざる時神使たりしとせば其本性亦神使に同じく無形体の神(しん)にして、人の霊魂よりは稍高尚なれども限ある者なりとするは理の当然なり。聖書は実に之を
  (甲)(神(しん))若くは汚鬼(神(しん))と称す。福音書曰く、既に暮れて鬼(神(しん))を患ふる者多人を携へて之に(即ち耶蘇基督に)就くあり。彼れ言を以て鬼(神(しん))を逐ひ、病を負ふ者は悉く之を医せりと(マトフェイ8:16)又曰く、十二門徒を召して之に権を賜へ鬼(神(しん))を治て之を逐ふべからしむと。(同上10:1)
  (乙)彼等に智慧及び意旨ありと為す。使徒パワェルは或書に於て正教を奉ずるの「ハリスティアニン」を戒めて曰く、我等「サタナ」に勝たるるを免かれん。蓋我等其詭計を知らざるに非ずと。(コリンフ後9:11又他書に於て基督の真理に逆へたる者が彼の意に任せて罪する魔鬼の網を脱せんことを望むの意を顕はせり。(ティモ後2:26)
  (丙)彼等が凡て物質的肉身的の者を有せずと為すを得るの理由を示す福音の記事なり。例へば救主はマガダラのマリヤより七鬼を逐ひ出せり(マルコ16:19と云ひ、又悪鬼の一群挙て人に入り而して彼等其人を出でて豕に入りたるに、其全群湖に突入せりと記す(ルカ8:30、33)。聖使徒パワェルの明白なる言なり。曰く、我等は血肉と戦ふに非ず、主制、権柄及び此世の幽暗の君並に天際に在るの悪霊(神(しん))と戦ふなりと。(エフェス6:12)
  (丁)彼等は能力に由て人に勝る所あるも限ある者と為す。此事は第一、魔鬼が神の許を得て義人イヲフを試み(イオフ1:2)又救主基督を試みたる(マトフェイ4:1-11)の挙動よりして見ゆ。第二、使徒が神霊的の闘争に関して「ハリスティアニン」に予へたるの教訓よりして見ゆ。曰く『之を究るに我が兄弟や、爾等宜しく主及び其大能に由て剛健なるべし。神の全備せる武具を衣て、魔鬼の詭計を禦ぐべきを致せ』(エフェス6:14-13、ペトル前5:8参看)
第二、聖書は悪霊の員数を確定せずと雖も鬼及び汚鬼のことを云ふに当り、常に複数の語を用ひて其数の甚多きを示す(ルカ10:17,20、エフェス6:12及其他)。又聖書に救主がガダラの地方に於て一人より多くの鬼即ち「レギヲン」を逐ひ出したるを証し(ルカ8:30)且救主自ら若し「サタナ」自ら相分争せば其国何を以て立たんやと云へリと為す。(ルカ11:18)

悪霊の間に上下貴賤の差別ありや按ずるに、之有りと為さざる可からず。蓋救主は人より出でたるの汚鬼が後己より更に悪しき七鬼を携へて之に入りたること(ルカ11:26)鬼王「ウェリゼウル」のこと(マトフェイ12:24、マルコ3:2、ルカ11:15,18)魔鬼及其使のこと(マトフェイ25:41)を述べ、又聖使徒は彼等に執政権柄及此世の暗昧の君等の称を付し(コロサイ2:15、エフェス6:12)彼等の神使界の階級を示すが如きの語を以て彼らを区別すればなり。

五十二、神は只悪霊の動作を放任するのみ
神が悪霊の自由を抑圧するを欲せざるを以て、其動作を放任することに関して正教会の教ふること左の如し。曰く『彼ら(即悪霊)は万悪の原因、神の尊厳を誹る者及び人の霊魂を乱す者なり、、、然れども神之を容すに非ざれば何人をも強ふる能はず』(正教宗門上篇二十一問の答)是即ち魔鬼は神の敵幷に人の敵と為りて動作する者なり。
第一 救主自ら魔鬼の己の敵と称して、彼は人子が美種を播きたるの田に稗を播くと云ひ(マトフェイ13:37,39)又斯世の君と称し(イオアン12:31,14:30,16:11)神の国に全く相反するの国を有する者と為し(マトフェイ13:26,28)而してこ「サタナ」の国は即ち異教(行伝26:18)及び凡て魔鬼を以て己の父とする人々の有罪の状態なり(イオアン8:44)との意を顕はす。聖使徒等は魔鬼及び其使を執政権柄及び此世の暗昧の君と称し(エフェス6:12)其国を死の国と名づけ(エウレイ2:24)神子の国に反する幽暗の国と称す。(コロサイ1:13)
第二 聖書に魔鬼が人々に敵対することを示すこと左の如し。
 一、魔鬼は始め人を殺してより即ち楽園に於て一たび吾人の元祖を誘ふてより(イオアン8:40)断へず百方手を尽くして各人を誘ひ、之を悪に傾けんとす。彼は吼獅の如く遍行して呑噬する者を尋ね(ペトル前5:8)或は人の智を昏まして、基督の有栄の福音の光をして之を照さざらしめんとし(コリンフ後4:4)又已に此光を以て照らされたる者に対しては、其心より神の言を奪ひ、信じて救を得ざらしめんとし(ルカ8:12)又敬虔なるイヲフの如き者をば(イオフ1:9以下)神の許を得災難を以て之を窘迫し、或は獄に投じて之を試みんとする等(黙示2:10)其詭計奸謀一々枚挙に遑あらず。
 二、魔鬼及び其使は神の許を得、人を苦めんとして之に入りたること少なからず。今又これなしとせず。福音に患鬼者のことを云ふの言は吾人に確然此事の疑ふべからざるを知らしむ。
  (甲)救主は自ら患鬼者を目して実に鬼に憑られたる者と視做せり。故に患鬼者と語る時は其人に向て言はずして直に鬼に向て之を言ひ、明かに之を汚鬼と称して之に人より出を命ぜり。曰く、汚鬼や此人より出でよと(マルコ5:8同1:25参看)又曰く爾聾唖の鬼や、我爾に命ず。之より出でて再び之に入る毋れと(同上9:25)
  (乙)人々の中に居るの鬼は実在的の者にして、其の自ら占居する所の人とは全く相異なるを以て、基督を見て神の子なるを悟り、其の己を制するの権能あるを認め、恐怖戦慄して神の子耶蘇よ我ら爾と何ぞ与からん。時未だ至らざるに爾来て我を苦しむる乎と叫び(マトフェイ8:29、マルコ1:24、5:7参看)又或時は彼等人より出づるに及んで豕の群に入るを許さんことを主に求めたり。(ルカ8:302,33)
  (丙)聖書の記者は患鬼者のことを云ふに当りては明に之を病を患ふる者と区別す。例へば福音者マトフェイ曰く、耶蘇十二門徒を召して之に汚鬼を逐ひ、且諸疾諸病を医すの権を賜へりと(10:1)、福音者マルク曰く、暮るるに及んで日入る時凡そ病を負ひ鬼を患ふる者を携へて耶蘇に就くあり・・・彼多く病を負ふ者を医し、且諸鬼を逐ひ、鬼の言ふを許さず、蓋其の基督たるを知ればなり。(1:32,34)

五十三、神は悪霊の動作を制限し之をして善良の結果に向はしめんとす

第三章 神が造物主及び照管者として人間に対する関係の事
 第一 造物主及人間に対する関係
五十四、此定理に関する教会の教及び此教の区分

五十五、初人アダム、エワが神に造られたりと為すモイセイの説の本義及其趣意

五十六、アダム及エワより全人類の出たること

五十七、人間の組織

五十八、人の霊魂の性質、人に在る神の像及肖

五十九、人間の目的

六十、初造の人の完全なること、若しくは人が己の義務を行ふの力を賦せられたること

 第二 神照管者の人間に対するの関係
六十一、此定理に関する教会の教及此教の区分

六十二、初造の人に対する神の照管及之に予へられたるの誡

六十三、人自ら縦ままにして罪に陥りたること、其の罪に陥るの状及其原因

六十四、元祖の犯罪の結果

六十五、元祖の罪の全人類に伝はること、原罪及其結果の解

六十六、原罪の実在及普及の理幷に之が遺伝の方法

六十七、原罪が吾人に生ずるの結果

六十八、神は人の罪に陥りたる後も息まずして之を照管す(甲)神は国家及人民を照管す

六十九、(乙)神は個々の人々を照管し、就中義人を照管す

七十、人に対するの神の照管の方法及次編に移るの意

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