正教定理神学 

 正教定理神学 (著 マカリイ1世 訳 上田将。明治22年版)による。

 原文との相違
 1 漢字カタカナ表記を漢字ひらがな表記に改めた。
 2 旧漢字は新漢字に改めた。
 3 適宜段落を入れた。
 4 適宜句読点を挿入した。
 5 語によって送り仮名を挿入した。
 6 引用句は『』で括った。



小引

一 基督正教定理神学の解
基督正教定理神学は、神のことに関する基督正教の定理を述ふる一科学なり。或ひは基督正教の定理を学理的に叙述する者なり。
 [一]我輩は此の定理神学に、
  (甲)基督教の三字を冠し、以て非基督教、即ち猶太教、回々教、異教等の定理神学と区別す。又、
  (乙)之に正教定理の語を冠して、以て正教にあらざる基督教、即ち羅馬教、プロテスタント教及びその他の諸派の定理神学と区別す。
 [二]基督教及び啓示の何たること、正教会を以て基督教の守護者及び講明者と為す所以、基督正教神学の要領ならびに其区別等は読者既に之を「神学入門」に由て知悉する者と見做す。
 [三]定理とは希臘語にて「ドグマ」と云ひ、説教、定説、決議の意あり。此語は基督教に関しても教、及び決議の意を以て聖書に用ゐらる。例へば基督は教(原語ドグマ)を以て旧約の諸誡の法を廃せり(以弗2:15)と云ふが如き。又イエルサリムに開きたる使徒公会の決議は原本に之を「ドグマ」(行伝16:4)と称するが如し。

二 定理が基督教の諸の真理の間に在って占むる所の位置、基督正教定理の解及び基本性質
第一 聖書及び聖伝に含蓄する基督天啓教の真理を分て二種と為す。一は乃ち真理にして信仰の知を以て会得すべき者。二は乃ち行為の真理にして意旨を以て了解し、以て生活上に実施すべき者なり。
教の真理は亦之を小分して二段と為す。一は乃ち神と人との間の結合を恢復したる基督教の本義に関する者にして、神のことと神が世界に対するの関係、就中其の人に対するの関係を教へて、人が救を得んが為には、何事を如何に信ずべきか、とのことを指定する故に、此の真理は我らに取りて教の唯々黙従すべき万世不易の規箴たる者なり。
又、二は直接に基督教の本義に関せるざる者にして、或いは旧新約教会の諸般の事蹟、及び人々のことに関する史上の記事、或いは基督教の本義に関係せざる預言者、使徒の如き、諸聖人の私説(救主基督の言にして、尚且つ此の類の者あり。例へばイオアン1:42、同47、4:50、5:8の如き)、或いは諸民諸邑の命運に関する預言者等、皆之に属す。此等の事たる天啓の書に載するを以て、全く吾人の信を置くに足るべきは固より論を俟たざれども、吾人の救贖の為に必要欠くべからざる者として示めさるる者に在らざるなり。
行為の真理も亦之を小分して二段と為す。
一は乃ち神と新たに結合を為したる徳義心を具ふるの人間は、まさに何事を行ふべきか、とのことを指定し、真に基督教脩身の誡命たる者にして、二は乃ち「ハリスティアニン」が、奉神礼に於いて如何に己の神に対するの関係を顕すべきか、「ハリスティアニン」は神の家に在って如何に行ふべきか(堤前3:15)とのことを示す者にして、乃ち儀式律例的の真理なり。
定理は、此の如く四段に区分せらるる基督教の真理の間に在って首位を占め、其の第一段に含有す。

第二 基督正教定理とは、神が吾人に啓示し、正教会受けて世に伝ひ、基督教の本義に関する教の真理にして、神のことならびに神が世界及び人間に対するの関係を教示する者なり。此の真理は吾人の救の為に必要欠くべからざる者なるを以て、吾人の唯々黙従すべき万世不易の真理なり。此の解に従へば、基督正教定理は各左の如き性質を具ふるを知るべし。
 [一] 右定理は基督教の者なるを以て、神の吾人に啓示したるの真理たり。故に必ず神の啓示に含む者なり。教会の諸父は此の意を以て基督教の定理を神の定理、或いは基督の定理、或いは福音の定理、或いは使徒の定理と称し、以ては一は他の諸宗教の定理、概して非基督教の教理と区別し、又一は基督教に属すと雖も神の啓示中に含まざるの真理、乃ち教会の奉神礼及び規律などに関する諸種の真理と区別す。
 [二]右定理は正教の者なるを以て、必ず真に公教会と称すべき正教会の保存して吾人に伝ふるの真理なり。蓋し信者ならびに個々の教会は各、或いは挙りて迷謬に陥るの恐れあれども、正教会は恒に聖神の導きを得るを以て独り誤ることなく天啓の真理を議定解明するを得るなり。諸聖父は此の意を以て基督教の定理を教会の定理、或いは正教の定理、或いは健全の定理、或いは敬虔の定理と称し、以て一は彼の基督正公教会より分離せし個々の教会、或いは国、或いは人々の挌守する不正教定理、懐傷せられたるの定理、岐教徒の定理と区別し、又一は正教信徒が各直接に啓示に基づきて立つるの私説と区別す。蓋し此の私説たる、たとひ全く真理に合ふ者たるも、教会之を保存し衆人に之を宣伝せざるを以て、到底一個の私説たるを免れさるなり。
 [三]又右は定理なるを以て基督教の本義に属し、吾人の救贖の為に必要欠くべからざるの真理にして、即ち神のことと、神が世界及び人間に対するの関係を教示する者なり。正教会が実に定理に此の特殊の性質を付し、以て他の基督天啓教の真理と区別するを証するものは、
  第一 定理の略述、若しくは信経なり。蓋し教会は之を以て吾人の救贖の為に必要欠くべからずとする神のことと、神が世界及び人間に対するの関係を教示する真理のみを吾人に伝ふればなり。
  第二 正教会が啓蒙書に於いて此の信経に付するの解明なり。
 [四]右は、基督教の者たり、正教の者たり、且つ定理たるを以て正教を奉ずるの衆「ハリスティアニン」が皆完全純潔に挌守、何人たりとも之を排斥し、若しくは変改するの権利なき争ふべからざる万世不易の真理なり。何となれば、定理なる者は神自ら吾人に啓示し、神立不可謬の師たる教会の人々に伝ふる所の者にして、吾人の救贖の為に必要欠くべからざるの教を含むを以てなり。定理は此の如き性質を具ふるを以て凡そ教会の定理に属する者を排斥し、若しくは懐傷する者は此に由って自ら正教信徒たる「ハリスティアニン」の社会を離れ、救贖を得るの望みを失ふなり。聖使徒曰く、「或いは我等にせよ、或いは天よりの使者にせよ、我が曾て爾等に伝ふる所に異なるの福音を以て爾に伝ふる者あらば則ち詛はるべし」と(加拉1:8)。第六全地公会の諸父も使徒に次いで謂ひて曰く『凡そ敬虔の定理を挌守せず、之を承認せず、此の如く思惟せず、宣伝せずして、之に敵せんと試むる者は「アナフェマ」に付せられ、且つ「ハリスティアニン」の社会より親与を絶たれ除逐せらるべし』と(同公会規則第一條)。

三 基督正教定理の区別
基督正教の定理は、皆其の性質を同じふすと雖も一は定理相互の関繋により、一は吾人の智慧に対するの関繋に因りて、其の間に差別あり。
 [一]定理相互の関繋よりして定理を分かち、一般基礎たるの定理及び個々の定理の二つと為す。
  (甲)一般基礎たるの定理は、又別に之を信仰の箇條と称す。此の定理は各己れに他の数箇の定理を含有し、若しくは之が基礎と為る者なり。
  (乙)個々の定理は一般基礎たるの定理より演繹せられたる者、若しくは之に基づき立てられたる者なり。全地公会にて議定せられたる一般の定理を合集したる者を信経とす。正教宗門(上篇第五問の答)に曰く、『第一のニケヤ公会と第二のコンスタンティノポリ公会の信経によれば、公正教の條目十二あり。我が教は明に開列て悉く其中にあり。我等をして之を信ずるに該公会諸父の説く所と毫も違ふことなからしむるを致す。さりながら此の條目中若干の者は自ら明白にして、且つ解り易けれども、余は奥密の意を含む。吾人は此によりて亦他の者をも解さざるべからず』と。信経に基きて個々の定理を演繹指定することは、聖教会意義広博なる信認書(正教宗門の如き者)、若しくは啓蒙書(正教訓蒙の如き者)に於いて之を吾人にに示す。
 [二]吾人の知識に対するの関繋を以て云へば
  (甲)或る定理は知識を以て暁り得可からざる者にして、之を信(教)の奥義、若しくは機密と称す。例へば至聖三者の定理、神の子の籍身の定理、贖罪の定理の如き是なり。
  (乙)又或定理は多少暁り得可き者なり。例へば照管の定理の如し。前者は吾人が唯信のみを以て独り自然而上の啓示により知り得べき者なれども、後者は吾人が唯信のみを以て独り神の啓示により知り得べきのみならず、一は亦潜思熟考するを以て自然の啓示よりして其理を暁り得可きものなり。

四 基督正教定理神学の源及び模範
第一 基督教の定理は神自ら自然而上の啓示を以て、悉く之を吾人に伝へたり。故に正教定理神学の唯一無二の源は神の啓示、即ち聖書及び聖伝なり。
第二 しかれども神立不可誤の師たる正教会は、人々をして正しく此の定理を了解し、以て迷謬異端に陥るを免れしめんが為、常に信者に教の模範なる者を授く。此模範に簡略の書あり。また稍々浩瀚の書あり。今正教定理神学を編纂するに当たりても、亦之を模範とせざる可からず。
 [一]簡略の書は左の如し。
  (甲)ニケヤ及びコンスタンティノポリ公会の信経なり。即ち第一及び第二の全地公会に於いて編成せられ、爾来全教会万世不易の教の模範として採用する所の者なり。
  (乙)其後の全地公会の定理上の決議なり。即ち第四全地公会が我主耶蘇基督一个に二性を含むことを定めたるの定理、並びに第六全地公会が我主耶蘇基督に二つの意旨と、二つの作用あることを定めたる定理等なり。
  (丙)十地方公会の規則中に載せて正教会の奉ずる定理上の教、並びにトルリス第六全地公会の嘉して枚挙したる諸聖父の規則、若しくは規定書翰等に載する定理上の教なり。例へばカルファゲン公会の規則(百廿三條乃至百卅條)に載する原罪の事、恩寵の効用の事、小児に領洗の必要なる事等に関するの教、ラヲティキヤ公会の規則(四十八条)に載する傅膏機密のことの教、ニッサの聖グリゴリイがリトイヤに送りたる規定書翰に載する「エピティミヤ」のことの教等なり。
  (丁)奇跡者聖グリゴリイの信経なり。此の信経は聖グリゴリイが神の特示を蒙りて、至聖三者のことを述べたる者にして、故らに全地公会の審査を経ざるも、正教会の一般に重んずる所なり。
  (戊)聖大アファナシイの信経と称する者なり。此の信経は至聖三者と籍身の奥義の二定理を述べる者にして、同じく全地公会の審査を経ざるも正教会の一般に重んずるところなり。
 [二]正教が稍々意義を詳らかにし、立論を正確にして定理を鮮明敷演せる書は左の如し。
  (甲)公使徒東教会の正教宗門なり。此の書は露国キエフの府主教ペトル、モギラの編纂に係り、若しくは其降福を得て編纂したる者にして(大約千六百四十年の頃)、後東方の総主教等の校閲を経、之が嘉する所と為れり。
  (乙)正公教会総主教等の正教書なり。此の書は初め一千六百七十二年イエルサリム公会に於いて朗読し、衆員の嘉する所となり、後千七百二十三年、東方の諸主教が正教の真意を述べたる者として、大不列顚国の基督信徒に送り、其問に答へたる者なり。露国に於いては千八百三十八年聖務会院の命に因りて之を国語に反訳したり。
  (丙)正公東教会の正教訓蒙なり。此の書は聖務会院の校閲を経、其の嘉する所となりて、偏く正教を奉ずる「ハリスティアニン」に朗読せしめんが為に刊行せられたり。

五 基督正教定理神学の科学的の性質及び叙述法
第一 基督正教定理神学は科学なるを以て科学に欠くべからざるの條項は、悉く之を具へざるべからず。而して其條項に従へば、
 第一 定理を整然たるの秩序に於いて叙述するを要す。定理を此の如くに叙述するを得可き所以は、定理の過半は人智の得て悟可からざる者たるも、其主眼とする所、専ら神のことの教の一点に帰して、互いに密接の関係を有すればなり。
 第二 成るべく完全に叙述するを要す。即ち凡そ正教会の奉ずる所の定理は、一も漏らずことなく、且つ汎く之を叙述することなり。
 第三 成るべく立論を正確にして叙述するを要す。即ち各定理の因て基づく所の十分の根拠を明示することなり。定理神学は此の科学的の性質を以て、一は彼の多少簡略に過ぎ、且つ整然たるの結構によらずして、正教会の定理を叙述する教の模範、若しくは信認書等と異なり、又一は概して整然たる秩序なく意義不完全にして定理を述ぶるの諸書と異なるなり。

第二 基督正教定理神学の叙述法は左の二則に従ふ。
 [一]此の定理神学は正教の定理神学なるを以て、首として教会の簡略、若しくは浩瀚なる信認書より其の解かんとする定理の正確なる定義を挙示し、以て正教会が其定理を教ふるの如何を明示せざるべからず。但之が為には、或いは二三の定理を一括して其の之を解かんとする部、若しくは章の冒頭に其定理に関する教会の教を挙示するを以て足れりとすることなり。而して後編纂の趣に従ひて引用したる所の教理を分割し、已に之を分割するに及んで一々序で追ふて解釈を下すべし。然れども時としては就中不可悟の定理を叙述するに当たり、之を詳解せんには、更に又細かに其定理に関する教会の定義を挙示するを要することあり。
 [二]已に各定理に関する教会の定義を挙示したる後は、聖書及び聖伝よりして、其根拠を挙示せざるべからず。蓋し教会が吾人に授くる所の教は教会自ら作り出す所の教に非ず。其定理は皆是れ天啓の真理にして一々其根拠を神の言より取ればなり。此の事に関して正教定理神学の要則たるものは左の如し。
 (甲)一定理を説明するに当たり、聖書中其定理に関するの語句は一も漏らすことなく、必ずしも悉く之を挙示するを要せず。只其中の最明白なる者のみを挙示するを以て足れりとすべし。
  (乙)定理を確かめんが為め、聖書の語を引き、之を解釈するには、全て正教会の聖書解釈法に依らざるべからず。
 (丙)定理を確かめ、或いは之を解明せんが為、聖伝の証を挙示することは、必ず基督教の最首要の源たる聖書の証を挙げたる後に於いてすべし。
  (丁)聖書の証にして、或いは充分明白完全ならざる時、或いは解釈一定せずして、議論紛々たるの場合には、必ず聖伝の証を挙げざるべかざる。
  (戊)然れども聖書より引用したるの語句、全く明白確然として正教徒も、又正教徒に非ざる者と雖も、決して疑問を容れ、或いは牽強付会の解釈を下すの余地なき時には、強いて聖伝の証を引用するに及ばず。

各定理を説明するに当たり、此の二つの重なる義務を尽くして其定理を解くの如何と正教会が聖書及び聖伝に基づいて之を教ふる所以を示したる後、其定理に関して人智の公正無偏なる判断を下すも、亦不可なきに非ず(羅馬12:2、帖前5:21)。若し定理にして人智の解釈するを得可き真理ならんには、己の知を以て更に其意を明白に説明するを得べく、且つ自己の意識の範囲内に於いて、更に其説を確かむるを得可し。若し又定理にして奥妙不可思議の者ならんには、己の知を以て此の奥義は全く人智の悟り得べかからざるにも拘らず、信者に取りては其意を悟るを得べき所以、此の奥義が人智を以て悟り得可き基督教の他の真理と相密着する所以、此の奥義を以て示さるる所の為は、神に適当し、神の完全に背かず、併せて人間の徳義を奨励するの益ある所以、此の奥義が唯悟り得可からざるの一事のみを以て之を斥くるの不正なる所以などを悟るを得可し。且つ又人智を以て悟り得可き定理、及び就中悟り得べからざるの定理が、常に世の妄論者の詰難する所となるは、能く人の知る所なり。而して彼らの詰難の根拠とする所は、概ね専ら人智に基づくを以て之を反駁せしには、知識の助に由らずんば、他に其方なかるべし。但此の正教定理神学に関して知識を用ふるに当たりては、常に之を牽制して、信に順はしめ(哥後10:5)、強いて智力の及ばざる所のことを説明せんとし、漫に度ることを高じて、当に度るべき所に過ぐるなからんこと(羅馬12:3)を旨とせざる可からず。

六 基督教正教定理神学の分割及び其小区別
正教定理神学は一科学たるを以て此の学の目的とする所の者を直写する者たらざるべからず。故に編纂上之を分割するに当たりて、亦其目的とする所の者に能く適応せざるべからず。抑も此の神学の目的とする所は、教の定理即基督教の本義本体に関するの真理にして、神のこと、神が世界及び人間に対するの関係を教ふるに在り。此の教たる、実に吾人の救贖の為に必要欠く可からざる者なり。然れども基督教なる者は、神が人を創造するを以て、他の諸霊物と共に之をして与らしめたる神と人との結合なるのみならず、人の罪に陥りたる後、恢復せられたる結合にして、此の結合には独り罪に陥りたるの人間のみ与るを得。且つ実に基督耶蘇の贖罪の功に因て与るを得る者なり。故にかみのことと、神が世界及び人間に対するの関係を説述する基督教の定理も、亦之を二種に分かつ。一は神のこと、神が世界及び人間に対する総体の(naturali,ordinario)関係を教ふる者にして、即ち神のことと、神が世界のあらゆる万物に対して普通一般に保つ所の関係を説く者なり。又一は神を専ら人間の救主として教へ、彼が人類に対する特別の(supranaturali,extraordinario)関係を説く者なり。救主基督が神父に祈る時述べたるの言は、恰も右の如き定理の区別を示す者の如し。曰く、永生は他なし。爾独一の真神と爾の遣はせし耶蘇基督を知る是なり(約翰17:3)、と言ふは吾人救贖を得んとせば、
 第一 真神を知ること、即ち基督天啓教が凡そ真神のことに関して伝ふる所のことを確信すること必要にして、次に彼の遣はせし耶蘇基督を知ること、即ち天啓教が我等の救主に関し,並びに彼の行ひたる救贖の大事に関して伝ふる所の真理を確信すること必要なりと云ふにあり。此の如き基督教の定理の分割法は、古教会の師父の最多く採りたる所にして、彼等は第一種の定理を総括して常に之を神学と称し、第二種の定理を総括して之を救贖の奥義、若しくは定制(以弗3:9)と称せり。後世に至りても此の如き分割は正教会の一般に採用する所となれり。第十七世紀の末イエルサリムの総主教たりしミトロファン、クリトプールは其著書『公使徒東教会宗門』に記して曰く『定理教を単純の神学及び救贖に関するの神学に分割するは、正教会の慣例とする所なり』と。右の故によって今又正教定理神学を二分して
  [一]神並びに神が世界及び人間に対する総体の関係の教
     並び
  [二]神、救世主並びに彼の人類に対する特別の関係の教
     と為すを得可し。
 第二 然れども神が世界及び人間に対する総体の関係を按ずるに、其重なる作用二あり。即ち、一は神が万民万族を慮るを以て世界の照管者たる是なり。又神が救世主として人類に対しする特別の関係を按ずるに、茲にも其重なる作用二あり。即ち一は彼が我等罪人を聖にし、若しくは吾人に救贖に与るの方法を授くるを以て吾人の成聖者たり。二は彼は吾人が此の世の行程を終るに及んで、吾人が救贖の方法を利用したるの如何を糾訊し、其行に応じて報を与ふるを以て吾人の審判者及び報酬者たる是なり。故に正教定理神学は之を二篇に大別し、更に其意を明瞭ならしめんが為、亦各編を小分して二部と為すを得可し。即ち左の如し

 前編 神並びに神が世界及び人間に対する総体の関係の事
   前部 神の事
   後部 神の造物主及び照管者足る事
 後編 神、救世主及び彼が人類に対する特別の関係の事
   前部 神、救世主の事
   後部 神の成聖者、審判者及び報酬足る事


 前編 神並びに神が世界及び人間に対する総体の関係の事
 前部 神の事

七 吾人が神を識るの程度
正教会は信経に神のことの教を述べるに当たり、我信ずの語を以て之が端を開き、而して此の語を以て天啓の左の三真理を言顕す。即ち
 [一]神は人の知識を以て暁る得べからず。神は近くを得ざるの光に居る。即ち人未だ見ざる所、且つ見る能はざる者なり(堤前6:16)。神の情は神の神゜より外、亦能く知る者なし(哥前2:11)。
 [二]神は見るべからず。亦人の知識を以て暁り得可からざる者たるも   (甲)受造物、即ち天然の啓示を以て人々に己を現示し給へり。蓋神の見る可からざる永能と神性とは創世以来造られたる者を見て之を知るべし(羅馬1:20)、且つ殊に   (乙)天然而上の啓示を以て己を現示し給へり。即ち昔預言者に託し、多方を以て屡々列祖に語り、季世に及び、其子に託して我等に語り(希伯1:1,2)、而して此の神の独一子は肉体に於いて地に顕れ(堤前3:16)真神を知らしめんが為に我等に光と智とを給ひ(約翰一書5:20)、而して後使徒に遣はすに察せざる所なく、神の深情をも察する真理の神゜を以てし(哥前2:10,約翰14:16-18)、之に託して其教を伝播せしめたり。
 [三]然り而して神は人々に己を現示し給へりと雖も、今我等は見る可かざる者を見ること僅かに玻璃に由て見るが如くにして、見ること明らかならず。今不可暁者を識ること全からず(哥前13:12)、今見るに憑らず、即ち信に因て歩むのみ(哥後5:7)。

八 神の事に関する教会の教の本義及び其分割
凡そ神が己のことに関して啓示し給へしことの本義は、正教会アファナシイの信経の左の言を以て簡短に之を言顕はす。曰く『公教は他なし。三者なる惟一の神と、唯一なる三者、其位の混せず、其本体の分かれざる者を尊敬する是なり』と。又正教宗門に於いて之を説示すること更に簡短なり。曰く『神は本体惟一にして、個位に於いて三者なり』(上篇第九問の答)と此の如く神のことに関する正教会の教は二つに分たる。即ち(第一)神の本体惟一なるの教、及び(第二)神の個位三つあるの教、是なり。

第一章 神の本体惟一なる事
九 神の本体惟一なることに関する教会の教及び此教の要領
正教会は神の本体惟一なることに関して吾人に左の理解を予ふ。曰く『神は乃ち永遠、純善、全知、至義、全能、在らざる所なき、変易なき、不足なき、万福の神゜なり』(正教訓蒙信経第一條の解)と。此理解は以て能く  (甲)神の本体(若しくは本性)、と  (乙)其体質の如何を指示し、併せて  (丙)其本体の唯一ならざる可らざるを示すものなり。

十 神の本体の解。神は乃ち神゜なり
神は純然たるの神霊にして、如何なる物体とも混合せざるものなり。随って其性たる全く非物質的にして、毫も他物と混淆せざる単純の者なり。此理は
 [一]聖書に物質、若しくは物体に必ず附属するの性質一も神に属せずと為すに由って見ゆ。即ち
  (甲)物体は皆悉く場所を以て制限せらるるも、神は毫も制限せらるる所なく在らざる所なし。主曰く、我豈に天地を充満せざらんや、と(耶利23:4,聖詠138:7-12)
  (乙)物体は皆変移するを得るも、光明の父には変易なく遷移の影もなし(雅各1:17)
  (丙)物体は皆部分より成り立つが故に破れ及び朽つることあるも、神は永遠に朽ちざるの王なり(堤前1:17)。
 [二]唯専ら神霊にのみ附属するの性質、神に属すと為すに由て見ゆ。即ち
  (甲)自覚及び個体なり。曰く、『見よ、見よ、此れ即ち我也。我の外神あるなし(復伝32:39、出埃20-2,3参看』
  (乙)智識なり。曰く『深い哉、神の智と識や。孰れか主の智を識らん(羅馬11:33,34)』
  (丙)自由の意旨なり。曰く『主は凡そ欲する所を天に地に海に諸淵に行ひ(聖詠134:6)並びに凡て己の志に循ひて万事を行ふ(以弗1:11)』
  (丁)生命及び止まざるの動作なり。主曰く『我は活けるなり(耶利22:24)。我永く活く(復伝32:40)。今に至るまで我が父之を行ひ、我亦行ふ(約翰5:17)』と。此の意を以て真神を活神と称し、以て之を諸の偽神と区別す(帖轍前1:9,庭前6:13)。
 [三]又神を称して、神゜と為すに由りて見ゆ。救主曰く『神は乃ち神゜なり。之を拝する者は宜しく神゜を以て真を以て拝すべし。(約翰4:20-24)』聖使徒亦之を謂て曰く『主は即ち神゜なり。而して主の神゜在る所には則ち自由あり(哥後3:17)』

十一 神の体質の解及び其分割
第一 神の体質と称する者は、自然神の本体に属して自余の諸物と区別する者を云ふ。随て本体惟一なる至聖三者の各位に均しく相適するの性質なり。故に亦之を神の一般の性質と称し、以て彼の神性の各位個々に属して、互いに之が区別を為す個々の性質と区別す(正教宗門上篇十三問の答)。
第二 神は其本体を以て云へば乃ち神霊なり。而して凡そ神霊なる者には各々其神霊的の性質の外、別に二つの重なる能力、若しくは才能あり。即ち智及び意是なり。此れに準じて神の体質を左の三段に分かつを得。
 [一]神の本体の一般の性質、即ち神の神霊的の本体と其の二つの能力たる智と意とに均しく相属し、概して神を神霊として自余の諸物と区別する者。
 [二]神の智の性質、即ち唯神の智にのみ属する者。
 [三]神の意の性質、即ち唯神の意にのみ属する者。

十二 神の本体一般の性質
神が神霊として自余の諸物と異なるの点を概論せば、自余の諸物は其存在によるも、又其能力によるも、皆制限せらるる所あり。随て多少不完全の者たるも、神は諸般の事に関して無制限なるの神霊、即ち純全たるの神霊なり。又之を細説せば自余の諸物は
 (甲)其存在の始と其生存に関して限らるる所あり。蓋し凡その者は初其存在を神より受け、恒に之に繋属し、又互いに繋属すと雖も、神は何者よりも受けず決して何者に繋属せずして自在及び不羈なり。
 (乙)凡そ物は其存在の形状に由って限らるる所あり。蓋彼等は必ず場所と時との制限に服するを免れず。随て変移せざるを得ざれども、神は毫も場所に拘束せらるることなくして測るべからざる者、及び在らざる所なき者たり。又毫も時に拘束せらるることなくして、即ち永遠及び不易なり。
 (丙)凡そ物は其能力の量と質とに由て限らるる所あれども、神は此事に関しても亦決して限らるる所なく、即ち全能にして能はざる所なき者なり。是の如く一般に神の本体に属する所の重なる性質は左の如し。

 [一]無限。吾人が神を無限と称する所以は、啻に彼が毫も他物に制限せられず、又毫も欠くる所なしとの意なるのみならず、諸事に関し至極完全にして際限なきを云ふなり。聖書は此の神の性質を象りて神を
  (甲)完全及び欠くる所なき者と称す。曰く『神は乃ち光にして少しも暗なし。(約翰一書1:5)』『爾当に純全なる。爾が在天の父の純全なるが如くすべし。(馬太5:48)』
  (乙)大なる者且無限に大なる者と称す。曰く『主は大にして讃めらるべし。其威厳は測り難し。(聖詠144:3)』『我が主は大にし其力は大なり。其智慧は測り難し。(同上146:5』『視よや、神は乃ち大なり。我等神を識らず。其年の数考ふべからず。(約百紀36:26』
  (丙)啻に秉権者と称するのみならず、之を独一の秉権者と名づけ(堤前6:15)、啻に善者と称するのみならず、独り善なる者と名づけ(馬可10:18)、啻に聖者と称するのみならず、之を独り聖なる者と名づけ(撒母前2:2)、啻に叡智者と称するのみならず、之を独一叡智の神と名づけ(堤前1:17)、啻に不死者と称するのみならず、之を独一不死の者と名づけ(同上6:18)、之を以て他の諸物の完全は、神の限りなき威厳に対して殆ど烏有に帰するが如きの意を示せり。
  (丁)光栄なる者と称し、又王及び光栄の神と称す。曰く『万軍の主彼は光栄の王なり(聖詠23:10)。光栄の神は轟けり。主は多水の上にあり(同上28:3)』。神の威厳及び光栄と云ふは他にあらず。神の完全其者若しくは其完全よりして必ず生ずるの結果及び其表顕なり。
  (戊)満足の者及び幸福の者と称し(堤前1:11,同6:15)、何事に於いても需つ所あらざる者にして(行伝17:15)、常に其顔の前に喜を有し、其右の手に楽を有する者と為す(聖詠15:11)。而して神が此の如く充満と幸福とを具有するを以て見れば、亦必ず完全欠くる所なき者と為さざるべからず。彼は乃ち之を感覚するに由りてのみ満足の者及び幸福の者たるを得可し。
神の無限若しくは完全とは我輩の前に述べたる如く、神の一性質を指して云ふに非ず。乃ち神の総体の性質なり。イエルサリムの聖キリール曰く『神は万事に於いて完全なり。乃ち知識に於いて完全なり。能力に於いて完全なり。威厳に於いて完全なり。預知に於いて完全なり。仁愛に置いて完全なり。公義に於いて完全なり。慈憐に於いて完全なり』と。謂ふこれより転じて神の本体の個々の性質に論及せん。乃ち左の如し。

 [二]自在。神を自在の者と称するは神は其存在を他物より受けず、乃ち其存在並びに凡て其の有する所のものは悉く己に由って之を有するが故なり。聖書は明に神の自在のことを教示して
 (甲)神の先に神が因て以て己の存在を受くべき他神あらず。何者も彼に一物をも予へざりしと為す。曰く『爾知りて我を信じ、且明に是れ即ち我なるを知るべし。我の先に神あるなく、我の後も亦有らざらん(井賽43:10)。孰か先ず彼に施して彼之に報ずるを致さんや(同上40:14)。
 (乙)神は原始の者にして「アルファ」、即ち万物の原たりと為す。曰く『我は乃ち原始の者、我は乃ち末後の者、我の外に神なし(井賽44:6)』『我は原始の神たり。末に於いて亦然り(同上41:4又48:12参看)』『主曰く、我は乃ち「アルファ」及び「ヲメガ」、始及び終なり。今在り、昔在り、能はざる所なき者なりと』(黙示1:8)
 (丙)神は己に生命を有ち、且つ自ら生命の源なりと為す、曰く『父已に在って生を有つが如く、其子に賜ふ。亦是の如く已に在って生を有しむ(約翰5:26)』『(人の子は)爾が裔の腴に飫く。爾は爾の甘味の流より彼等に飲ましむ。蓋生命の源は爾に在り』(聖詠35:9,10)
 (丁)神を称して在る者なりと為す。モイセイ神に対して曰く『視よや、我イズライリの嗣に詣り、之に謂て云はん。爾が先祖の神、我を遣して爾に詣らしむと。彼れ我に問て曰はん其名は伊れ何ぞと。我将に何を以て之に告げん。神モイセイに謂て曰く、我は在る者なりと。又曰く、爾イズライリの嗣に告げて之の如く云ふべし。在る者我を爾に遣はすと(出埃3:13及14)』

 [三]不羈。神の不羈とは、神が本体能力並びに動作共に自ら理めて、決して他の牽制を蒙らず、自ら充満なる者、自治者、有権者たるの性質を指して云ふなり。聖書は截然神の不羈を象りて左の真理を示す。
  (甲)神は毫も他に需つ所なく、却って自ら衆人に万物を賜ふ。彼れ手造の殿に居らず、需つ所有する者の如く、人手の事ふる所とならず、自ら生命と呼吸と万物とを以て衆に予ふ(行伝17:24,25)。
  (乙)他の者は神の存在と其完全に関し、並に其動作に関して何者をも神に予ふる能はず。誰か主の心を知り、誰か其議士と為りて之に教へし乎。彼誰と共に相議するや。誰か之に誨ふるや。或は誰か之に教るに義鞫の径を以て士、或いは之に示すに明哲の道を以てするや(井賽40:13,14)。或いは孰れか曽て先ず彼に施し、而して彼之に報ずるを致すや。蓋万物彼に本つき、彼に由り、彼に終る(羅馬11:35,36)。
  (丙)神は全権を以て万物を統御するの主宰たり。故に何人たりとも何者たりとも決して彼を強制するあたはず。世界と之に満ちる者は皆我に属す(聖詠49:12)、主や、主や王全能者や、凡その物皆爾の権にあり。汝イズライリを救はんと欲する時、爾に逆ふ者なし。爾は天地及び天下の諸の奇異なる者を造れり。爾は万物の主なり。誰も爾主に逆ふ者なし(以西帖4:17)。蓋悉く爾に務む(聖詠118:91)。
  (丁)神は実に毫も他の牽制を蒙ることなく、純ら己の意に循ひて万事を行ふ(井弗1:11)。

 [四]測るべからざること、及び在らざる所なきこと、神を称して測るべからざる者と為すは、神は固より純然たるの神霊にして、且何事に関しても無限の者たるが故に、亦決して場所を以て制限せらるる所なく、自ら己を以て万物を満たすとの意なり。又神を称して在らざる所なしとするは、神は自ら己を以て万物を満たしつつ、自ら所として在らざるなく物として充たさざるなしとの意なり。神の在らざる所なきを信ずるの信と、此の事に関するの教は古より神の啓示に於いて歴代存せり。即ち
  (甲)列祖の世に存せり。列祖の世に於いて、此の信の存せしことはイヤコフとリワンが約を立つる時の言に見ゆ。曰く『我等の間に人無し。惟視よ、神は我と爾との間の証者なり(創世31:44同50)』。又イヲシフがペンテフレイの妻に対するの答に見ゆ。曰く『我豈に敢えて此大悪を作して罪を神に獲んや(同上39:9)』
  (乙)律法の世に存せり。律法の世に於いて神の在らざる所なきを証するの明らかなる教は、主の自ら述べる所の言に見ゆ。曰く『天は乃ち我の座位、地は即ち我の足台なり。爾我が為に建つる所の室、安に在るか。『我の安所は安くに在るか(以賽66:1)』。『人能く隠所に匿れて我豈に之を見ざらんや。我豈に之を見ざらんや。我豈に天地を充満せざらんや(耶利23:24)。又神の在らざる所なきを信ぜしことは、ダワィドが神に向て述ぶるの言に見ゆ。曰く『我安くに往きて、爾の神を避くるや。安くに走りて爾の顔を逃るるや。天に升らんか。爾彼処にあり。地獄に降らんか。彼処にも爾あり。暁の翼を取って海の極に移らんか。彼処にも爾の手、我を導き、爾の右の手我を援けんと(聖詠138:10)』又ソロモンの祈祷に見ゆ。曰く『天と諸天の天は尚爾を容るるに足らず。況んや我が爾の名に建つる所の此の殿をや(列王上8:27)』。
  (丙)基督教の世に存せり、神の在らざる所なきの大意は救主がサマリヤの婦に真神に対するの礼拝は、一定の場所に限らる可き者に非ず。乃ち所して行はれざるなしと告げたるの言に見ゆ(約翰4:21^23)。使徒の言に於いて益々明らかなり。曰く『神は悉くの人類を造り、其をして主を尋て庶くは揣摩して之を得せしめんと欲す。然れども主は我等各人を離るること遠からず(行伝17-26,27)』。又曰く『万有の神たり父たる者、一彼れ万有の上にあり。万有を貫きて我等衆人の中に在り』(以弗4:6)

教会の聖師父は諸種の迷謬を未萌に防がんが為め、或いは之を排斥せんが為め、神の在らざる所なきの方法を説明せんと勉めたり。今其言ふ所を見るに曰く『神が在らざるところなく自ら萬物を満たすは(甲)空気若しくは光の如く、其の本質の瀰漫を以てするに非ず。何となれば神の性たる非物質的にして、全く神霊的なればなり。曰く(乙)神は只其全知及び全能の作用のみを以て在らざる所なしとするに非ず。乃ち其本體を以て在らざる所なきなり。曰く(丙)神は或る場所を以て限られ、或いは是に包括せられず。之に反して彼は万物の内にに在り、又万物の外にあり。故に彼は自ら万物を包括す。且神は包括すと雖も自ら世界及び之に居る者の場所と為るに非ず。古時の教会の牧師等は此の如く神の在らざらる所なき所以の理を説明するに当りて、亦常に神の此性質は暁り得可らざるものとせり。

 [五] 永遠。神を永遠なりと云ふは彼れの存在に始なく、亦終なく、凡て時に束縛せらるることなしとの意なり。聖書を見るに
  (甲)神自ら屡々己に此性質あるを明言す。曰く『我永く生く(復伝32:40)』『我は乃ち原始の者、我は乃ち末後の者(井賽48:12,41:4,44:6)』『我は乃ちアルファ及びヲメガ、始及終なり(黙示1:8,17)』『我の先に神あるなく、我の後も亦有らざらん(井賽43:10)』『我は乃ち在る者なり』(出埃3:14)
  (乙)預言者、神に此性質ありと為す。例へばダワィド曰く『主や、爾初に地を基づけ、天も爾が手の造りし所なり。彼等は亡びん。惟爾は永く存せん。彼等は皆衣の如く古び、爾衣服の如く之を更ふれば、彼等は易らんとす。唯爾は易らず。爾の年は終わらざらん(聖詠101:26^28)』『山未だ生せず、爾未だ地と全世界を造らざるの先き、且世より世までも爾は神なり』(聖詠89:3)『爾が目の前に千年は過ぎし昨日の如し』(同上5節)
  (丙)新約の記者も神に此性質ありと為す。例之聖パワェルは神を永遠朽ちざるの王(堤前1:17)、独一不死の者(同上6:16)と称し、使徒ペトルは聖詠者が神の為には千年も猶一日の如しと云ふの言を復して、主の前には一日も猶千年の如しとの言を加へたり(彼後3:8)。

教会の聖師父は吾人が如何に神の永遠を了解すべき乎を説明す。この永遠とは人の常に憶想するが如く、彼の連綿継続する無数の部分よりして成立つ所の時間、即ち必ず過去現在未来より成立つ無始無終の時の謂いに非ず。乃ち恒常不易に存在する一の現在の時なり。神学者聖グレゴリイ曰く『神は常に在り。今在り、後在らん。或いは寧ろ常に在りと言ふを善しとす。蓋し昔在り、後在りとの言は、吾人の時の区別を示す者にして過ぎ去るものに適当すと雖も、、在りと云ふの語は、常の意を含めばなり。神は山に在ってモイセイと語る時、自ら此の語を以て己を名づけたり。何となれば彼は己に始めなく、且つ止まざる純全の存在を有すればなり』と。

 [六] 不易。神の不易とは神が己の本体と、己の能力、完全及び其定断動作に於いて常に不変不易なるの性質を云ふ。聖書は神の此性質を象るに当りて
  (甲)神には、凡て人に見るが如き変易なしとす。曰く『神は人の如く謊らず、人の子の如く易らず(民数23:19)』『人の心には多くの謀あり。惟主の旨は永く立つ』(箴言19:21)
  (乙)凡て外物に見るが如き変易も亦これなしとす。曰く『主や、爾初に地を基づけ、天も爾が手の造りし所なり。彼等は亡びん。唯爾は永く存せん。彼等は皆衣の如く古び、爾衣服の如く之を更ふれば、彼等は易らんとす。唯爾は易らず。爾の年は終わらざらん』(聖詠101:26^28)『天地は廃せん。惟我言は廃せず』(馬可13:31)
  (丙)神には遷移の影だもなしとす。曰く『凡そ善賜全錫は皆上よりして、光明の父より降る。彼れ変易なく、遷移の影もなし(雅各1:17)』
  (丁)遂に神自ら我は爾の主神なり、我変易せずと云ふと為す(馬拉基3:6)

教会の諸聖師父は神が諸事に関して全く不変不易なりと論定しつつ、彼れの意旨及び定断が自由を有するの受造物に対して、不変不易なる所以を説明するに当たり、聖書に基づき神の意旨を二様に分て甲乙或は前後の二つに区別し、或いは後世に唱ひたる如く、之て絶対相対の二つに区別せり。其一は神が人の事を行ふを俟たずして、何事をか行はんと欲するの意旨を云ふ者にして、例へば万人の救いを得て真理を識るに至らんこと欲する(堤前2:4)が如き是なり。而して其二は自由を有するの受造物に何らかの義務を負はしめ、之に対して何事をか行はんと欲するの意旨にして、例へば人々に己の独一子を遣はし、凡そ之を信ずる者をして沈淪を免れて永生を得せしめんとする(約翰3:16)が如き是なり。此の如く神の意旨は自由を有するの受造物に対しても一般に他の諸物に対するが如く、亦不変不易にして受造物の意旨は決して此の神の意旨と其定断に強制せられざるなり。


 [七]全能。神を称して全能者と為すは、神が万物を生じ、万物万民を統御する無限の大能力を掌握するの意なり。故に或いは神を無所不能者と称し、或いは秉権者と称し、或いは全能者と称す。聖書にこの神の性質を象る所甚だ多く、勝て数ふべからず。今其証を示さんに聖書は
  (甲)一般に神の全能なることを称す。曰く『我爾が能く万事を為し、凡そ能はざる所なきを知る(約百紀42:2)』『アッワ父よ、爾は能はざる所なし(馬可14:36)』『神に在っては能はざる所なし(馬太19:26)』『凡そ神の言、一も行はれざるなし』(路加1:37)又細かに云へば神の全能を
  (乙)受造物に於いて示す、『神曰く、光る在るべしと。乃ち光あり』(創世1:3)『彼言へば即ち成り、命ずれば即ち造られたり』(聖詠32:9,148:5)
  (丙)受造物を照管し、並びに之を統御することに於いて示す。曰く『彼等は皆爾より時に随て食物を与ふるを待つ。彼等に与ふれば受け、爾の手を開けば腸を厭かさん。爾の顔を隠くせば懼れ、彼等の気を取上げれば死して塵に帰る。爾の気を施せば造られ、爾は又地の面を新たにす(聖詠103:27-30)』『主や、大と能と栄と勝と威と供に爾に属す、凡そ天に在り、地に在る者皆爾に属す。爾は万有の主たり』(歴代上29:11)と。更に又神の全能を証するに
  (丁)奇跡を行ふを以てす。曰く『何の神か、我が神の如く大ならん。爾は奇跡を行ふの神なり(聖詠76:14,15)』『主、神、イズライリの神、独り奇跡を行ふ者は讃揚せらる(同上71:18)』
  (戊)基督教と教会を拡張し、並びに之を守るを以てす。曰く『上に我の教会を建てん、而して地獄の門は、之に勝たざらん。(馬太16:18)』『 然れども神は世の愚なる者を選べり、智なる者を愧かしめん為なり、神は世の弱き者を選べり、強き者を愧づかしめん為なり、神は世の賤しき者、藐んぜらるる者、有るなきが如き者を選べり、有る者を廃せん為なり』(コ前1:27,28)『蓋彼必悉くの敵を其足下に置くに至るまで王たるべし』(同上15:25)

十三 神の智の性質
神の智は二面よりこれを観察するを得べし。即ち一には神の智そのものを観察し、二には神の作用に対してこれを観察するなり。甲の点より観察する時はこの智の一性質、即ち全知の理解を得べし。乙の点により観察するときは他の性質、即ち高尚なる叡智の理解を得べし。

一 全知。吾人は神を認めて全知の者となしつつ、啻に彼が知らざる処なしとの意を表するのみならず、亦併せて彼が万事を完全に知るの意を示すなり。聖書は明らかに之を証して、
 (甲)神は万事を完全に知ると為す。曰く『神は乃ち我が心より大にして知らざる所なし(イオアン一書3:20)』『主は乃ち叡智の神なり』(サムイル前2:3)『其智慧は測り難し(聖詠146:5)』『皆其の目前に裸にして顕露す』(エウレイ4-13)『主や、爾は知らざる所なし、爾は凡その知識を有す』(エスフィル4:17)また之を細かにしては聖書は
 (乙)神は己を知ると為す、曰く『父の外、子を識る者なし。子の外、父を識る者なし』(マトフェイ11:27)『人の情は人の神゜より外誰が能く之を知らん。是の如く神の情も神の神゜より外、亦能く之を知る者なし」(コリンフ前2:11)
 (丙)神は凡そ有り得可き者を知ると為す。曰く『神は無を称して有と為す』(ロマ4:17)『万物を其の存在を受けるに先って知る』(ダニイル13:12)
 (丁)神は凡て実地に存在する所の者を知ると為す。曰く『蓋し彼地の極を鍳み、遍く天下を観る』(イオフ28:24)『物として其の前に昭著ならざるなし』(エウレイ4:13)彼は〔イ〕物体界の万事を知る。蓋し彼星の数を数え、悉く其の名を以て之を呼び(聖詠146:4)山の悉くの禽を知り(同上49:11)其の目は全地を洞観す(歴王下16:9)陰府は其の前に暴露し、敗懐の所、蔽ひ無し(イオフ26:6)〔ロ〕彼又道徳界の万事を知る。人の途は即ち主の目の前に在り。彼は其の凡そ行ふ所の者を理む。(箴言5:21)蓋し其の目は各人の途に注ぎ、彼れ人の諸の歩履を鑑み、悪を行ふ者匿くるべき所なし(イオフ34:21,22)主の目は遍処に在て善悪を鑑み(箴言15:3)主は諸心を観察し、凡その人念の図維する所の者を知る(歴代上28:9)惟爾人の嗣の心を知る(同下6:30)
 (戊)神は凡そ過去の事を知ると為す。曰く『神は永世より其の凡て行ふ所の者を知る』(行伝15:18)『故に復必ず主は義に由て世を審判して』(同上17:31)『幽暗の陰情を光照し、且諸心の計謀を顕はし』(コリンフ前4:5)『各人に其の行ふ所に循て報ずる』(箴言15:11)の時至らんとす。
 (巳)神は凡そ現在の事を知ると為す。曰く『陰府沈淪は皆主の前に在り。何ぞ況や人嗣の心をや』(箴言15:11)『彼れ地の果てを鑑み、遍く天下を観る』(イオフ28:24)
 (庚)神は凡そ未来の事を知ると為す。曰く『我は乃ち神、他有るなし。我始よりして示すに終を以てし、古時よりして示すに未だ成らざるの事を以てす』(イサイヤ46:9,10)詳らかに云へば(イ)将来必ず起こるべき事件のみならず、偶然生起するの事を知ると為す。曰く『我未だ腹中に爾を造らざるの先、我曽て爾を識れり』(イェレミヤ1:5)『主や、爾遠くより我の念慮を知る。我往き、我息ふ。爾我を環る。我が悉くの道は爾れ之を知れり』(聖詠38:2,3)(ロ)故ありて生起すべき将来の事件を知ると為す。即ち茲に故あれば其の事之に伴なふて起るべかりしも、其の故の行はれざるに由りて起らざりし事件なり。曰く『禍なる哉ホラジンや。禍なる哉ワィフサイダや。蓋し爾の中に在て施せし所の異能、若しティール、シドンに施さば、彼早く麻を衣、拝を蒙て改悔せしならん』(マトフェイ11:20)

二 至高の叡智。神の至高の叡智とは神が最善の目的と最良の方法を目位置し、併せて方法を目的に適応するの妙術を有するのいいなり。故に神の叡智とは、神の全地を神の作用に対して観察したる者と為し、或は神の知識を其の作用妙術上観察したる者とするも可なり。聖書は明らかに神に此の性質ありと為す。即ち
 (甲)一般に神を称して、智者、権能、謀略、明呉を有するの叡智者と為し(イオフ記12:13)独一叡智の者と為し(ロマ14:26、テモフェイ前1:17、イウダ25)及び万人のため日の源たりと為す、曰く『若し爾の中、智足らざる者あらば当に夫の識らずして厚く衆に賜ふの神に求むべし。即ち必ず賜はんと』(イヤコフ1:5)細かに之を云へば
 (乙)旧約の聖記者等は特に世界を以て神の叡智を反射するの鏡と為す。ダワィド呼んで曰く『主や、爾の工業は何ぞ多きや。皆智慧を以て造れり』(聖詠103:24)ダワィドの叡智なる子は箴言に於いて亦此の意を述べて曰く『主は智慧を以て地を基づけ、聡明を以て天を建てり』(箴言3:19)イエレミヤの預言の書に載する所を見るに曰く『主は己の能を以て地を造り、己の智を以て世界を建立し、己の明哲を以て天を舒べたり』(イェレミヤ10:12)
 (丙)新約聖書には救贖の定制を以て特に神の大なる叡智の業と為す。聖使徒パワェルはコリンフ人に達するの書に謂て曰く『我等十字架に釘せられたるの基督を伝ふ。イウディヤ人には礙と為り、エルリン人は観て愚と為す。然れども召されたる者に於いては、イウディヤ人もエルリン人も神の能と為し、神の智と為す』(コリンフ前1:23,24)『我等奥妙秘密なる神の智を言ふ。即ち神が諸世の先に我等をして栄を得せしめんが為に預定せし所の者なり』(同上2:7)又他書に於いて此の神の定制の計画の奥妙不可思議なることを論じたる後、呼んで曰く『深哉、神の富と智と識や。測るべからざる哉。其審判や索むべからざる哉。其踪跡や』(ロマ11:33)

十四 神の旨の性質
神の旨は神の旨其の者と受像物に対する関係の二点よりして観察するを得べし。甲の点より観察するに、神の旨は(甲)其の本性を以てすれば無限に自由なる者して、(乙)其の自由の作用を以てすれば至って聖なる者なり。又(乙)の点よりして観察するに
 (甲)先づ至仁なり。何となれば仁慈は凡そ天下の知識を有すると有せざるの受造物に対する神の諸の作用の主要なる原因たればなり。
 (乙)
 (丙)


十五 神が本体に因て惟一なるの真理
神を諸々の高尚の完全を具備する無極無限の者とするよりして自ら神を惟一なりと為さざるを得ず。何となれば苟も健やかなる知識を以て思考するときは、無極無限にして均しく完全此の上無き者は、決して二つ、若しくは多く有るべきの理なければなり。聖書は吾人が前に枚挙したるの性質を神に付すると共に神を惟一の者と名づく。

一 神は惟一なるの真理は旧約に最も多く述ぶる所なり。即ち、
 (甲)神自らイズライリ人に語る所の言に見ゆ。曰く『視よ、視よ、此れ即ち我なり。我の外に神あるなし』(複伝20:39)『我は即ち原始の者、我は即ち末後の者、我の外に神あるなし』(イサイヤ44:6)
 (乙)モイセイがイウディヤ民に語るの言に見ゆ。曰く『爾をして爾の主神は乃ち神にして其の外他なきを知らしめんとす』(復伝44:6)又曰く『イズライリや、聴けよ。主我らの神は惟一の主のみ』(同上6:4)
 (丙)聖詠者の言に見ゆ、曰く『主の外孰か神たるや。我が神の外孰か神たるや』(聖詠17:32)『蓋し爾は大いにして奇跡を行ふ。爾は独神なり』(85:10)

二 新約に於いて神の惟一の真理を示すこと亦明々白々たり。
 (甲)救主自ら一士子が何をか諸誡の首と為すと云へるの問に答へて曰く、『諸誡の首は即ちイズライリや聴けよ、主爾等の神は一主のみと』(マルコ12:28,29)亦救主が天父に祈るの言に曰く『夫れ永生は他なし。爾独一の真神を知る是なり』(イオアン17:3)
 (乙)聖使徒パワェルは偶像に献じたる物を食ふことに付きて疑問の起るに際し、コリンフの門弟に誡めたる中に左の言あり、曰く『偶像に献じたる物に付いては、我等偶像は世に於いて無為にして、神は惟一他なきを知る。謂て神と為す所の者は、或は天に在り、或は地に在りて多神多主有るが如しと雖も、我等には一神即ち父あり。万物之よりし、我等之に帰す。又一主即ち耶蘇基督あり。之に由り我等亦之に由る』(コリンフ前8:4-6). (丙)又使徒パワェルは他書に於いて、人はイウディヤの礼儀法を行ふに由らず、信に因って義とせらるる所以を証するに当たりて曰く『神は独りイウディヤ人の神にして、異邦人の神に非ざるか。彼亦異邦人の神たり。蓋し惟一の神、将に信を以て割礼者を義と称し、又信に由って無割礼者を義と称せんとす』(ロマ3:29,30)


第二章 神の個位三つある事
十六 至聖三者の事に関する教会の教及び此の教の編成
至聖三者の事の正教会の教は殊に明晰にアファナシイの信経に述ぶ。即ち左の如し
『公教は他なし。三者なる惟一の神と惟一なる三者其の個位の混せず、其の本体の分かれざるものを尊敬する是なり。蓋し父の個位、子の個位、聖神゜の個位は各々相同じからず。然れども父及び子及び聖神゜は其の神性惟一、光栄相均しく、尊厳亦同じく永遠なり。父の如く子も然り、聖神゜も亦然り。……即ち父は神、子は神、聖神゜も亦神なり。然れども三つの神に非ずして惟一の神なり……父は何者にも創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず。又生まれたるに非ず。子は創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず、乃ち父より生まれたり。聖神゜は創造せられたるに非ず、造成せられたるに非ず、又生まれたるに非ず、即ち父より出づ……而して此の三者に前後の区別なく、多少の差別なし。乃ち三位相全うして皆偕に永遠且同等なり』
此の教は三説を含む。一は総体の説にして他の二者は直接に此の総体の説より出でて、其の意を闡明する枝葉の説なり。

総体の説とは、
本体唯一なるの神に三つの個位、即ち父、子及び聖神゜ある是なり。
枝葉の説とは、
 第一 神は本体唯一なるを以てそ三位は互いに相均しくして、且一体なり。即ち父も神なり、子も神なり、聖神゜も亦神なり。然れども三つの神に非ずして唯一の神なり。
 第二 然れども其の恋三つなるを以て個々の性質によって互いに相同じからず。父は何者よりも生まれず、子は父より生まれ、聖神゜は父より出づ。
故に至聖三者の定理は之を分析すれば左の三定理を含む。乃ち〔第一〕神の本体唯一にして三位あるの定理〔第二〕神の個位同等一体なるの定理〔第三〕三位其の個々の性質に因って相違なるの定理、是なり。

第一 神は本体惟一にして其の個位三つある事
十七 此の定理に関する教会の教の要領
第一 正教会が吾人に教へて神の本体(Substantia)に由って惟一なりと云ふは、父及び子及び聖神゜は惟一の相分かれざる本性(Natura)、惟一の相分かれざる神性、相分かれざる神の性質及び完全を有すとの意を顕すなり。而して又神が個位(Persona)に於いて三者なりと云ふは、父及び子及び聖神゜は其の本体惟一にして相分かれざるも、之に三つの不羈独立分かつべからざるの個位ありて、各々個々特別の性質を有し、三者互いに相違なるとの意を顕すなり。聖大ワシリイ曰く『聖三者に総体の者と特別の者あり。総体の者は本体に属し、個位は各三者の特性を示す』と。神学者聖グレゴリイ曰く『甲は神の本性を指し、乙は三者個々の性質を指す』と。第二全地公会の諸父も此の意を以て西方の諸主教に送るの書に記せり。曰く『我らの教は洗礼に応じて我らに父及び子及び聖神゜の名に因て信ずべきこと、即ち父及び子及び聖神゜の唯一の神性、能力、本体と三つの全き個位の分かつべからざる尊厳及び其の永遠の国を信ずべきを教ゆ』と。
第二 聖教会が吾人に神の個位を混すべからざるを誡むるは吾人が神の個位を混じたる異端者(1)の迷謬に陥るを未然に防ぎ、且吾人に諭してかの異端者の想像せしが如く、父及び子及び聖神゜を認めて同一なる神の三つの名称、若しくは其の形像、若しくは顕象に過ぎずと為し、或いは其の三つの性質と為し、或いは其の能力若しくは作用と為すことなく、乃ち神性の独立不羈の三位と認めしめんとする者なり。何となれば三者の各位即ち父及び子及び聖神゜は各々神の智を有し、其の他凡そ神に属するの性質を具へつつ、亦個々特別の性質を有するが故なり。『蓋し父の個位、子の個位、聖神゜の個位は各相同じからず』而して又聖教会が吾人に神の本体を分かつべからざるを誡むるは、吾人が此の本体を分かちたる異端者(2)の迷謬に陥るを未然に防ぎ、且吾人に教へて父及び子及び聖神゜は其の本性に因って一なるが故に三つの神に非ず。乃ち各々相割れずして彼此相偕にし個々の性質に由って相異なるも、知、意及び其の他神の諸性質を同じうし、三つの物体の存在するが如きに非ずして、其の本性惟一なるも互いに全く相異なる者たるを知らしめんとするものなり。
 (1)例へば第一世紀に巫者シモンあり。第二世紀にプラクセイあり。第三世紀にノイチイ、サワェリイ、サモサトのパワェル等あり。第四世紀にアンキラのマルケルあり。此の異端者等は概して「アンティトリニタリィ」と称せらる(訳すれば聖三者を排する者の意)。
 (2)例へばフィッリポン(大約五百四十年)及び其の徒弟並びにスホラスチズムのロスツェリン、ペトル、アベリャル等なり。此の異端者等は概して三神教党と称せらる。

十八 旧約に至聖三者の奥義を指示するの証
神は本体惟一にして、其の個位三つあるの真理は新約書に於いて最明らかに啓示されたりと雖も、旧約に於いても之を指示する所あり。今之を分かち三段と為すを得可し。

第一 惟一なる神に一位のみならず数位あるを示す所あり。此れに関するものは
 (甲)神が人を創造するに先に述べたるの言なり。神曰く『我等宜く我等の像と肖とに依りて人を造るべし』(創世記1:26)
 (乙)罪に陥りたるの元祖を楽園より逐ふに先に述べたるの言なり。神曰く『此のアダム能く善悪を分かつこと我らの一に彷彿たり』(同上3:22)
 (丙)塔を築きたる後、言悟を混淆し衆民を散ずるに先て述べたるの言なり。主曰く『来れ、我ら降臨して其の口音を淆し、之をして言語通ぜざらしめん』(同上11:6,7)

第二 又、惟一の神に三位あるを示す所あり。即ち左の如し
 (甲)聖創世記記者は神がマムリヤの橡樹の下に於いてアウラアムに現れたることを記して、神(イエゴワ)マムリヤの橡樹に在って之に顕現せり…アウラアム目を挙げて観れば三人有って其の前に立てりと云ひ、而後直ちに語を継て曰く『之を見て即ち幕門より趨り出でて之を迎へ、地に俯伏して曰く「主や、若し爾(原語単数なり)の恩を蒙らば、請ふ、僕を離れて去る勿れ」と』(創世18:1,2,3)是の如くアウラアムは三人を見て一人に伏拝す。此れ即ち彼は三人を見て聖三者の奥義を悟り、而して之を拝するや恰も一人に対するが如くにして、三位なる唯一の神を確認せしなり。
 (乙)預言者イサイヤは光栄に満被するの主を見て、其の方座を囲繞するのセラフィム等が相呼んで、『聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉、主「サワヲフ」』と云ふを証す。(イサイヤ6:3)茲に三次聖なる哉聖なる哉聖なる哉と云ふをい以て神に三位あるを示し、主「サワオフ」と云ふを以て其の本体の唯一なるを示すなり。

第三 又旧約に別々に至聖三者各位の個体と神性とを述べ、併せて其の名を記する所あり。例へば
 (甲)父及び子の個体と神性を証するの言を挙げれば曰く『主我にい謂へり。爾は我の子。我今爾を生めり』(聖詠2:7)と。『主、我が主に云へり。爾我が右に坐せ』(同上109:1)と。『黎明の前に我爾を生めり』(同上3)
 (乙)聖神の個体と神性を証すること、亦前二者の如し。イサイヤ呼んで曰く『今主「イエゴワ」と其の神゜と我を遣わせり』(イサイヤ48:16)『而して神の神゜(即ちイエゴワの神゜)将に其の(メッシヤ即ち子なり)上に安居せんとす。即ち智慧と明哲の神゜、謀略と剛毅の神゜、知識と敬虔の神゜なり。彼又将に神を畏るるの神゜に満被せんとす』(同上11:2,3)

十九 (甲)神の個位三つあることと其の本体の惟一なることに関する新約の証

二十 (乙)神の三位の実に個体を具ふることに関する新約の証

二十一 (丙)神の三位の本体惟一にして分かつべからざることを証する最も著名の箇条は左の如し

二十二 古教会が至聖三者の奥義を信じたるの証
基督教会は聖書の斯く明らかなるの教に循ひ、傍ら聖伝の証に基づきて其の創立の時より常に至聖三者の奥義を信ぜしこと、今日信ずる所と恰も符節を合するが如し。之が確証は左の如し。
一 聖使徒より伝はりてニケヤ公会前、諸所の教会に用ひられたるの経なり。例へば使徒律例に載するの信経(専ら東方教会に於いて聖先機密行ふとき採用したる者)を見るに曰く『我惟一の生まれざる唯一の真神、全能者、基督の父……及び其の独生の子、万物に先て生まれ、諸世の先、父の旨に因て生まれ、而して造られざるの主耶蘇基督を信じ、且領洗す……又聖神、即ち世の始より諸聖人の上に作用を顕し後、我が主基督耶蘇の約に循て、父よりして使徒等に遣はされたるの保恵師に由って領洗す云々)
二 初代教会の奉神礼式及び慣習なり。即ち
 (甲)授洗式なり。教会は洗礼を行ふ時、救主の誡に循ひ、常に父及び子及び聖神の名に因て之を行ひ、且使徒の伝に基づきて必ず領洗者を三次水中に入れ、之を以て益々明らかに授洗者ならびに領洗者が惟一なる神の同尊同貴なる三位を信ずることを表証せり。
 (乙)小讃詞なり。教会が往時より最も多く用ひたるものは『光栄は子に由り、聖神に於いて、父に帰す』或いは『光栄を父及び子と聖神とに帰す』の二式にして、又時としては『光栄を父及び子及び聖神に帰す』と唱へたり。
 (丙)晩歌の感謝の歌なり。盛大ワシリイは古代の「ハリスティアニン が聖神が父及び子と同尊同貴なるを信ぜしことを示さんとして、此の歌の中より『父と子と神の聖神を讃揚す』との語を引きたり。
 三 初代の教会が彼の至聖三者の定理を傷つけんとせし者に対して下したる宣告なり会々、此の如き徒出でて、其の邪説を弘めんとすることあれば諸会の信徒、就中牧師等は乍ち之を目して新説を主張する者、異端を唱ふる者となし、挙げて之に敵し、而して教会の猶豫することなく、直ちにこれを生協との社会より退けたり。即ち神に三位あるの説を排せんとしたるプラクセイ、ノエチイ、サワェリイ、サモサトのパワェルの如き、及び是より先き子の神性及び子が父と一体たるの定理を排したる「エウィテニト」党「ケリンフ」党の如き其の著名なるものなり。
四 初三世紀間の教会の聖師父等の証なり。例へば
 (甲)羅馬の聖クリメント曰く『我等は惟一の神と惟一の基督、及び我等に注がれたる恩寵の惟一の聖神を有するに非ずや云々』
 (乙)アンティヲヒヤの聖フェオフィル曰く『天の星宿の創造せられざる時に存せし三日は三者、即ち神と其の言及び其の叡智(聖神)の儀なり』
 (丙)テルトリアン曰く『惟一の神の三位は即ち父及び子及び聖神なり』(プラクセイを駁する書21章)
 (丁)パタラの聖メフォディ曰く『父及び子及び聖神の国の一なることは、其の本体の唯一なると其の主権の惟一なるが如し。故に吾人は唯一の三位なる神、始めなき者、造られざる者、終わりなき者、永遠の者に同一の叩拝を為す』
 (戊)聖イッポリト曰く『誠に父及び子及び聖神を信ずるに非ずんば、惟一の神を認むる能はず』
 (巳)アレキサンドリヤのディヲニシイ曰く『若し夫れ個位は三なる以上は即ち別々の者なりと云はんか。異端者は之を好まざるも実に三なり。然らずんば全く神の三位の理解を無に帰せんのみ』

第二 神の個位の同等及び一体なる事
二十三 此の定理に関する教会の教の要領
聖教会は神の個位の同等一体なるの定理を言い顕すに左の語を以てす。曰く『父は神、子は神、聖神も亦神なり。然れども三つの神に非ずして一神なり』と。此の如く三者即ち父及び子及び聖神を各々別々に神と称すは、彼等各々独立の者にして、神の悉くの完全を具ふるが故なり。然れども父及び子及び聖神の三者は三つの神に非ずして一の神なりと云ふは、三者皆共に神の完全を具ひ、皆共に惟一の本体、惟一の神性、惟一の意旨、惟一の能力、憲兵、尊厳、光栄を有するが故にして、之を三位として区別するは、三者の均しく有する神の性質の相違なるが故に非ずして、其の個々の性質の相違なるの点に基づくなり。蓋し此の個々の性質(又特質と訳す)の相違なる故に因って父は父たり、子は子たり、聖神は聖神たる者にして、彼の真の神性と称すべきものは三者皆同一なり。神学者聖グレゴリイ此の意を解明して曰く『神性は無限なる三者の無限の同性なり。茲に各其の一を取りて見るも、各々神にして、各々其の特質を具ふ。即ち父及び子、子及び聖神是なり。而して此の三者を一括して見るも、亦是れ神なり。前者は一体たる故に因り、後者は始原一たるの故に由るなり』と。又曰く『神性は一なり。然れども神性を有する者三つあり。一を取りて称するときは各々一の神なり。而して言、三者に渉るときは亦是れ一の始なき神にして神性の豊満之にあり云々』

二十四 父の神性
聖三者の第一位の神たることは未だ曽て何人も疑を容れざる所にして、他の二位の神性を排したるの異端者と雖も此の一点は疑を容れざりき。而して此の事誠に理の当然なり。何となれば、人全く其の智識を傷ふに非ざる限りは決して世に神なしとする能はざると(聖詠13:1)一は聖書に父の神性を象示すること明々白々にして毫も疑念を生ずるの余地なきが故なり。救世主基督自ら己の父を
 (甲)神と称す。曰く『神、世を愛すること甚だしく、其の独生の子を以て之に賜ひ、凡そ之を信ずる者をして沈淪を免れて永生を得せしめんとす』(イオアン3:16)
 (乙)独一の真神と称す。曰く『永生は他なし。爾独一の真神と爾が遣はせし所の耶蘇基督を知る是也』(同上17:3)
 (丙)天地の主と称す。曰く『父や、天地の主や、我爾を讃す。爾此の道を知者達者に隠して、之を赤子に顕はすに因る』(マトフェイ11:25)
亦、最屡父を
 (甲)神と称し「ハリスティアニン」に与ふる書の冒頭には概常に、願くは爾等(神)父より恩寵安和を得んことを、との語を置き(ロマ1:7、コリンフ前1:3、コリンフ後1:2、及其の他)且之に一心一口、神、吾主耶蘇基督の父を讃栄すべきを諭す。(ロマ15:6)
 (乙)独一の神と称す。曰く『我等に一の神あり。即ち父なり。万物之よりす』(コリンフ前8:6)
 (丙)頌美せらるるの神と称す。曰く『神即ち我らの父、耶蘇基督の父、慈悲の父、全慰を施すの神は頌美せらるべし』(コリンフ後1:3)

二十五 子の神性及び子が父と一体たる事

二十六 聖神の神性及び彼が父及び子と一体たる事

第三 神の三位其の個々の性質に由て相異なる事
二十七 此の定理に関する教会の教

二十八 神・父の特質

二十九 神・子の特質

三十 神・聖神の特質


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